カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「指導教科別、この先生のクラスが荒れない(上)」~子どもの導き方のあれこれ②

 担当教科というのは意外に教師の生き方や人格と同期する。
 国語科や社会科は多様性を重視する。理科の教師は実証的だ。
 体育科の教員には情熱的で割り切りの早い人が多い。
 英語の先生たちの開放的でその記憶力には舌を巻く・・・等々。
 そしてそれは学級経営に反映する。

という話。

f:id:kite-cafe:20210209073729j:plain(写真:フォトAC)

【教科で違う学級の色合い】

 私の初任校は生徒数1300人というマンモス校でした。まだ45人学級(最大生徒数45人)の時代ですから1クラス42~43人の生徒のいる10クラスが各学年の平均的な姿でした。
 教職員数57人。初めて出勤した日に「四十七士より10人も多いのかよ」と妙な感想を持ったことを覚えています。

 当然、教科担任も一人ということはなく、各教科2~5人、教務主任やら生徒指導主事やらの掛け持ちも入っていると7~8人ということもあって大変な数でした。これだけ多いと教科担任の雰囲気というものも自ずと見えてきます。国語の先生はこんな点で似ている、社会科はこうだといった共通の性格・生き方などの匂いです。
 そしてその匂いと学級担任として受け持つクラスの雰囲気を重ね合わせると、何となくある種の傾向が見えてくるのです。“ああ、この教科の先生たちのクラスはよく落ち着いているなあ”とか、“あの教科の先生たちのクラスはどこもかしこも大変そうだなあ”と言った感じのものです。
 そこで考えたのが「指導教科別、この先生のクラスが荒れない」。もちろん私の勝手な解釈ですが。


【一番荒れにくいのは体育科】

 まず誰もが想像するのは「体育科の先生のクラスは荒れないだろう」ということです。そして多くの場合それは当たっています。ただし暴力でクラスを制圧していると考えるのは早計です。

 もうずいぶん昔の話になりますが、1970年代に全国に広がった「荒れる中学校」を抑え込んだのも体育科の教師あるいは体育会系の先生たちだと言われていますが、この人たちの最大の特徴はとにかく勝負に反応が早いということです。そして負けない。

 小さなころから運動に長けて、クラスでも1・2番の速さで走ったり跳んだり勝負してきた人たちですからいざ対決となると戦闘モードに入るのが早く、教室の指導の場で言えば、何か問題が発生した次の瞬間には最大限の力で勝負するだけの態勢が整っていたりします。

 体を張ることにためらいがない――。それが子ども同士の殴り合いだとか生徒がパニックになって棒を振り回しているといった場合でも怯むことがありません。子どもの悪事を発見したときなども、どう対処しようかと迷う間もなく足が一歩前に出ています。
 緊急の場合、その一歩で勝負が決まってしまいます。

 

【指導が一貫して揺るがない】

 さらに、体育科は信念の人たちでもあります。
 スポーツ選手も田中将大レベルだと一般の選手とは別のメニューで独自の練習をしたりしますが、小中はもちろん、高校の段階でも「各個人やりたいように自由に練習してもかまわない」とい考える指導者はいないでしょう。成果が出ないだけでなく場合によっては危険ですらあります。
「おーい、誰でもいいから適当にその辺でハンマー投げやってこいよ」
とは絶対に言わないでしょう?

「いろいろ理屈や思いはあるかもしれないが、結局はオレのやり方が一番正しい」
 それが内心の声です。
 授業で「生徒一人ひとりの考え方を大切にする」とは言っても、それはあるきまった枠の中での自由であって、「準備体操でエネルギーを使うのはもったいないので、ボクは体操はしません」などというのは決して認めてもらえません。
 彼らの指導はよくも悪しくも一貫して揺るがないのです。

【子どもの前に立ちはだかることを厭わない】

 小さなころからの勝負師で、負けることはおろか引くことも自分に許しませんから多くが強面です。同僚や保護者に対しては甘くても、生徒に甘い顔を見せることはありません。たまに優しい顔、愉快な表情をしていてもとつぜん戦闘モードに入ったりしますから、生徒としては気を許し切ることもできません。

 必ずしもそうだとは言いませんが、多くの場合、体育科の教員は「学校で一番厳しい先生」の役割を背負わされています。生徒指導の矢面に立たせやすいからです。そして多くの場合、学校のチンピラ少年が一番好きな先生もその「学校で一番厳しい先生」なのです。もちろん少年たちはめったに口にはしませんが。

 子どもはよく、「なんで大人は世間体ばかり気にするのだ」とか言ったりしますが、これは「世間」の定義に問題があります。
 私たち大人にとっての「世間」は、友人であり勤務先の同僚・上司・後輩であり、隣近所の人たちであり、つまり何らかの人間関係をもっている人もしくはこれから持つかもしれない人々です。
 同じ定義を子どもに当てはめれば、子どもたちにとっての「世間」は同級生や先輩・後輩、あるいは校外の仲間だったり道ですれ違う同年代だったりといったことになります。そう考えると大人に比べて、子どもの方がはるかに世間体を気にして暮らしていることが分かります。

 大人たちは、いざとなれば世間体を無視してもやらなくてはならないことがあると知っています。しかし子どもはその堪えどころで堪えられないことがあります。
 典型的なのが不良少年たちです。
 彼らは「お前、たばこ吸うような?」と訊かれて「吸わない」とは答えられません。「カツアゲに行こうぜ」と言われて「警察に捕まりたくないから行かない」とはなかなか言えないのです。この子たちだって本当は悪くなんかなりたくない、「いい子だね」「立派だね」とたくさんの人から認められたいのです。それなのに彼らの小さな「世間」に流され、自身では抑えが利かない。
 その「どうしようもない自分」に敢然と立ち向かい、抑えてくれるのが「学校で一番厳しい先生」ですから、嫌いなわけがないのです。

 そんなふうに体育科の先生たちは子どもに向かい、クラスの平和と安定を確保します。それが体育科の先生たちの凄いところです。
 しかし体育科と同じくらい反応が早く、積極的に子どもに関わって行こうとする別の先生たちもいます。

 意外なことに、それは音楽科です。

(この稿、続く)