カイト・カフェ

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「人材」〜新しい意味を付与される言葉たち

 先月5日の当ブログで、
 娘のシーナは「直火(じかび)」を「ちょくび」と言って父親(私)を絶望させますし、婿のエージュは最近まで紅白歌合戦が男女別だということを知らなかった(中略)かくいう私も30歳過ぎまで「あさくさ寺(浅草寺)」と「せんそう寺(浅草寺)」が同じものだと知りませんでした(中略)。しかしそうした数々の無知は、圧倒的な“それ以外の知識”によって相殺され、“かわいいミス”くらいの扱いで見過ごされたりしますと書きました(2017/12/5 「勉強ができないにもほどがある」〜なぜ勉強しなければならないのか2 ) 。

 しかしその“かわいいミス”にも“ほど”があって、会話や文章の冒頭にとんでもないミスがあったりすると話が先に進まなくなります。

 というのは、先日、成人式に関するネット記事を読んでいたら冒頭の一文が、
「私は成人式が嫌いな人材である」
で、それで一行も先に進めなくなったからです。
「人材」をこういうふうに使う文は読んだことがありません。

【正しいのは誰だ?】

 困ったのはこれが素人のブログ記事ではなく、天下のYahooニュースに寄稿した某大学の専任講師の記事だったからです。
 60年以上生きてきた私がまったく知らない表現だから「違うだろう」と思うのですが、同時に私は権威に非常に弱いタイプなので半分腰も引けています。言葉は生き物ですから、知らないところで形態を変えていたのかもしれません。

 そこで辞書を調べてみるとデジタル大辞泉で「才能があり、役に立つ人。有能な人物。人才」、大辞林(第三版)も同じ、Wikipediaでは「才能があり、役に立つ人物。すなわち社会に貢献する個人のこと。人才とも」。
 つまり私の感じ方は正しいわけで、世の中には「人材派遣会社」「シルバー人材センター」もいっぱいあるわけですからそう簡単に意味が変わるわけはないのです。ほっと胸をなで降ろしました。

【「じんざい」の4分類】

 しかしそれにしてもこの堂々たる書きっぷりはどうでしょう。

 しばらくしてまた不安になり、さらに調べるとアッと驚くページに出会います。そこにはこんな表現があったのです。

 初出はよくわかりませんが、人材関連のビジネス書やコラムを見ていると必ずと言っていいほどこの「人材」「人罪」「人在」「人財」の分類が登場してきます。
 仕事に関する姿勢としてその人の価値をうまく表現したものですが、そこから組織内で「人財」と呼ばれるような活躍をするにはどうすればいいかを考えてみます。
「仕事理論」〜人材、人罪、人在、人財の考え方
 その上でこんな図までありました。

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  要するに人材関連のビジネス書やコラムを見ていると必ずと言っていいほど出てくるありふれた表現だったわけです。したがってそちらに明るい人は自然に使える用語ということになります。(世界は広い!)

 しかしもう一度最初に立ち戻って当てはめると、この分類でも「私は成人式が嫌いな人材である」は理解できません。
「自分は今は専任講師の身だが実は将来性豊かな人間だ」ということを、ことさら表現する必要はないからです。
 もしかしたらさらに別の概念もあるのかもしれません。

【「じんざい」の2分類】

 そこでさらに調べていくと、今度はこんな文章にたどり着きました。
「社員は材料ではなく、財産として扱って大事にしているんです。だから部署名を人財開発部にしているんですよ」 とか、 「わが社は社員を財(たから)と思って経営してます」 という話を最近よく聞くようになりました。
 部署名も、人財開発部とか、人財採用チームなど、「財」の字を使う企業が増えているようです。
 こういった名称を使用している企業の多くは、
 人材=使い捨てにする材料
 人財=財産のように大事にする という理解のようです。
「なべはるの人事徒然」〜「人材」「人財」の本当の意味
 これです。

 最初に引用した「私は成人式が嫌いな人材である」は(「自分は世間の使い捨てになるような人間ですが」と具体的には言っているわけではありませんが)要するにへりくだっているわけで「僕」や「拙者」と似たような使い方なのです。
 ようやく合点がいきました。

【言葉のこだわりは大切にしたい】

 合点は行きましたが「人材」のこうした使い方は、まだまだ一般的とは言えないでしょう(ちょっと自信がないけど)。少なくとも4分類の「人材」(将来性のある人)と2分類の「人材」(使い捨てにする材料)で意味が異なる以上、人材関連のビジネス書やコラムの中で限定的に使うにしても注意が必要です。ましてやYahooニュースです。

 もちろん語に対するこだわりは誰にでもあって、それは尊重されなくてはいけません。
 私だって「重複」を「じゅうふく」と読んだり「独擅場(どくせんじょう)」を「独壇場(どくだんじょう)」と書いたり読んだりするのは嫌です。いまでも「9組」の次のクラスは「10組(じっくみ)」であって「じゅっくみ」ではないと強く思っています。

 それは知識をひけらかしているのではなく、ずっと正しいと思う言い方をしてきたので異なる読みをされると耳障りだからです。気持ちに引っかかるのです。しかし耳障りで気持ちに引っかかりながらも、他人に対して指摘したり直させたりすることはありません。

 へりくだった表現としての「人材」を尊重しなければならない日はいつか来るかもしれませんが、「僕」や「拙者」と同じように使うためには、もう少し機が熟さなくてはならないでしょう。

 ところで図に引用した「じんざい」の4分類。
 60歳を過ぎた私に将来性を問われても困りますし、まさに「犬馬の歯 (けんばのよわい)」(←一昨日書いた)、犬や馬のようにむだに年齢を重ねてきたので「実績」といったものも残していません。そうなると私の居所は「人罪」の枠だけです。

「人であることが罪であるような存在」

 ――遣りきれませんなァ、もう。

*引用した『「仕事理論」〜人材、人罪、人在、人財の考え方』と『「なべはるの人事徒然」〜「人材」「人財」の本当の意味』はどちらもなかなか面白いものですので、時間のある方は是非ご一読ください。