ある画家に、
「一流の画家になる方法は何ですか?」
と尋ねたところ、
「長生きすることだ。
長生きしていると過去の作品が何度も持ち込まれて『これは先生の作品ですか?』ということになる。そこで絵を見て、いい絵だったら『自分のものだ』と答え、まずかったらたとえ自分の作品でも『俺のものじゃない』と答えて捨ててしまう。するとよい作品だけが残って悪い奴は抹殺できる。それで一流の画家さ」
それが単なる創作小話だったのか、実在の画家の冗談なのか、ありは実在の画家のかなり本気の話だったのか記憶にありません。しかしたしかにそんなことはありそうだなと思ったことは覚えています。
ところで画家や作曲家のような「作品」と呼べるモノのない人間、つまり私のように市井に生きる、記憶以外に残るもののない人間は、その“記憶”をどう整理して生きているのでしょう。
私は無意識のうちに嫌な記憶ばかりを選択的に残す性分らしく、ほんとうに嫌なのです。特に教員時代のことを振り返ると“嫌なこと”しか思い出さない――。
嫌なことと言っても正確に言うと、「人に嫌な思いをさせたこと」「非難されたこと」「怒られたこと」、そんなことばかりを思い出すのです。
【我が人生に、悔いあり】
言いたくはありませんが(本当は言いたい)、私だって“いいこと”もしているのです。
社会科教師として、誰も取り上げたことのなかった地元の歴史を古文書のレベルから解き起こして授業に乗せたことがあります。
部活顧問として本当に弱かったチームを一年で上の大会まで引き上げたこともあります。
誰が考えてもこの上なく難しい女の子を、崖っぷち支えきり、曲がりなりにもまっとうな人間として生きる道筋をつけました。
ひとりでやった仕事ではありませんが、管理職として、本当にメチャクチャだった学校を一年で立て直しました。
しかし、ボーっとしていて何の気なしに思い出すのは、そうした素敵な自分ではなく、前述した“悪い出来事”ばかりなのです。
担任したクラスの中で、最も大切にしてやらなければならない子を一番大事な時に忘れた(思い出すと死にたくななります)。
会計の仕事に失敗して収支が分からなくなり、安月給の頃なのに数万円を補填した(今なら補填したこと自体が懲戒対象です)。
教員として、解決すべき問題を解決できなかった(半分近くは問題から逃げていた)。
後ろめたいことがあり、だからこそ接会って話すべき相手に、気弱になってメールで済ませたばかりに激怒された。
――言い出せば切りがありません。
私は過去を振り返ってクヨクヨするタイプではありません。
潔いというより昨日のことを覚えている記憶力に問題があるのです。
したがって気分の切り替えは速く前日を引きずるということはないのですが、数年まとめて思い出すと悪いことしか出てきません。
どうしてでしょう。
このまま思い出すことを拒否していると、いいことから忘れてしまいそうです。
皆さまはどうしているのかしら。