カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「今日の家庭訪問」〜教師の武装解除

 帰ってきた妻が「聞いて、聞いて、聞いて」みたいな感じで話し始めたのは、同僚で中1のお子さんのいる方が今日家庭訪問なのに年休を取らなかったという話です。
「なぜだと思う?」
 分かるはずのない質問。
「子どもだけでいいんだって、家を確認するだけだから親はいらないって」
 ああ、そういう時代が来たんだと、何となくやりきれないような気持ちで私は思いました。

【消えた家庭訪問】

 考えてみれば予兆はあったのです。
 15年も前のことですが、当時勤務していた小学校の校長が突然、家庭訪問は玄関先で済ますこと、接待・土産等も一切受け付けないこと、と言い出したのです。
「保護者のプライバシーは尊重されなければいけません。そもそも他所様の家に平気で上がり込むような非常識が許されてきたこと自体ぎ問題。本来は許されないことです」

 プライバシーを言い立てるなら、家庭での学習の管理だとか登下校の指導だとか、下校後の生徒指導、休日の万引きの対応、交通安全の指導など、やめるべきことはたくさんあります。
 非常識を言い立てるなら、膨大な時間外労働、持ち帰り仕事、しかも無給・代替え措置もないというそちらの非常識から改善すべきと、いつもの不満をぶちまけながら(心の中で)、一方で、「ああ、あの人たち、とうとう校長の篭絡に成功したな」と思いました。
 かなりしつこく家庭訪問廃止を訴えていた保護者がいたのです。
 不幸なことにその時の校長は学区内に自宅があり、学校の内と外、夜討ち朝駆けで地域の要望を聞かされていましたから、撥ね退けることの難しい場合もあったのかもしれません。

 さて、それからほどなく私が学校を異動してしまったので、玄関先家庭訪問がどうなったか知りません。しかし考えてみると玄関先ではロクな話もできませんから行っても児童の家の位置確認だけになってしまう、そうなると特に中学校では生徒本人が居さえすればいいことになります。道に迷ったとき案内してもらうためです。保護者をわざわざ休ませて行うことではありません。
 おそらくそういう経緯があって、妻が聞いてきた「生徒本人が家にいればいいだけの家庭訪問」は始まったのでしょう。バカな話です。
 

【家庭訪問の必要性】

 家庭訪問については3年ほど前にまとめて書きました。

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.comでっすから改めて言いませんが、本当に子どものことを知り、指導に役立てたいと思ったら必須なのです。
「百聞は一見に如かず」
 見るだけで分かることはたくさんありますし、見ないと分からないことも少なくありません。子どもも家庭もあっという間に変化してしまいますから毎年行うことにも意味があります。

 さらにもうひとつ。
 4月に保護者と大まかな一年の予定を立て、12月の個別懇談で中間報告と立て直しを図り、3月の通知表(または翌年の家庭訪問)で総括するというサイクルは、これも絶対必要なものだと思っていました。
 PDCAサイクルなどというアメリカ由来のマネジメントが導入されるはるか以前から、日本の教員はそうしてきたのです。
 家庭訪問は教師の武器なのです。
 

 武装解除

 考えてみるとかつての教師が持っていた大量の武器を、今の教師はほとんど持っていません。
 体罰なんてその代表です。

 私は体罰容認派でも賛成派でもありませんし、仮にそうだったとしても今さら昔に戻せるわけはないので言っても仕方ないのですが、昔の教師はその“抑止力”のおかげで楽な生徒指導をしていたのは事実です。いい悪いは別として“体罰”は教師の有力な武器だったのです。

 忘れ物一覧表などというのもけっこう役に立ちました。後ろの黒板に貼ってあった「○○君、忘れ物△△回」というあの模造紙の棒グラフです。私は有力な忘れ物名人でした。

 帰りの会で必ず行われた「女子による悪辣男子の人民裁判」も、子どもに何がよくて何が悪いかを知らせるのに有効な手段でした。ここでも私は常連でしたのでとても嫌でしたが、先生は楽だったでしょうね。子どもによる相互批正ですから聞いているだけで済みます。
 しかしこれも今では「教師が見て見ぬふりをする集団いじめ」と捉えられかねません。

 生徒を呼び捨てにしたり罵声を浴びせるのは、“怒り”を伝える上でとても便利でしたが、今はそれも控えられています。人権問題ですから。

 昔の教師は偉かった、優秀だった、立派だったと言いますが、そんなことはありません。武装して児童生徒にしっかり聞く態勢を取らせてから授業をしたり話したりするので、内容がよく分かったのです。そうやって聞いてみると、先生たちは案外いい話をしていました。
 今の先生たちはロクに武器も持たないのに子どもに話を聞かせ、子どもたちを動かしていく――その意味では本当に優秀で、大したものです。
 

 【家庭訪問の回帰】

 さて、私の住む田舎では家庭訪問もなくなる傾向にありますが都会はどうかなと思って小学校で教諭をやっている婿のエージュに電話をすると、
「家庭訪問はやっていますよ、毎年。玄関先でということになっていますが、必要に応じて家に上がることもあります。接待は受けないようにしていますが」
 とのこと。おやおや案外古い体質を保っているのだと喜んでいると、
「いや、以前はなかったんですよ。“地域巡り”といって子どもの家や地域環境を見て回るだけだったのが3年前から戻したのです。やはり親との関係づくりができない、特に新しいクラスでは顔も覚えられないですから」

「そうだろう、そうだろう、そうだろう」と私は電話口で前のめりになります。
 都会はやはり一歩、前を進んでいます。
 必要なものは、やはりなければならないのです。