「しかし怖いことなのかもしれない」~死を恐るるなかれ①

 一昨年息子のアキュラを誘ってイタリアに行った際、出発の飛行機の中でふと思ったのは、
「この飛行機が墜ちても私はいいけど、アキュラにはかわいそうだな」
ということでした。

 アキュラはまだ学生ですからやりたいこともやるべきこともたくさんあります。親としては私自身が味わってきた幸福――良き仕事に恵まれ家庭を持ち、子をもうけて育てられたこと、そういったものを味わわせたい気持ちがあります。
 ですから乗っている飛行機が墜落するような事態になったら、隣のアキュラに「ごめんな」くらいは言っておこうと、そんなふうに思ったのです(飛行機慣れしていないのでビビッていたのかもしれない)。

 私自身は墜ちて死ぬことにはあまり抵抗はありませんでした。
 40代前半で大病したときから、死はあまり怖ろしいものではなかったのです――と言うより、病気で死ぬかもしれないと思ったときも、ほとんど怯えていない自分に気づいたのです。

 ただしその年齢で死ぬのはけっこう迷惑なことです。
 アキュラはまだ4歳でしたし姉のシーナも小学校2年生になったばかりです。私が死ねば二人には気の毒だし、二人を抱えて育てて行かなければならない妻にも迷惑がかかります。
 まだ現職で、しかもある教育機関に出向し始めたばかりのころだったので、学校と出向先の双方に迷惑がかかります。
 老父母を置いて行くので、予定のない弟にも負担がかかります。

 それが20年前の事情です。けれど現在の私にはそのほとんどがない。
 敢えて言えば母が90歳で健在なので、その世話を弟に任せることになって気の毒ですが、おれもこの先20年も面倒を見なければならないということにはなりそうにありません。
 そう考えると20年前よりもさらに死は怖くない――いまは思うのです。

 ところがいま話に出したばかりの90歳の母親は、どうやら死ぬことが(死ぬほど)怖ろしいようなのです。震災に備えて携帯用ランタンなど買っています。
 弟と話したら弟も怖いと言う――。
 もっとも弟は私に輪をかけて結婚が遅く、一人娘がまだ17歳なのでその意味では死にきれないとも思うのですが、そういう意味ではなく単純に怖いらしいのです。そう言えば5年前に88歳で亡くなった父も怖がっている様子がありました。

【死は眠り、もしくは祝祭だと思う】

 今月号の月刊「文芸春秋」に『私はこのがんで死にたい』という題名で医師の近藤誠さんのインタビュー記事が載っていました。その中で、
「近藤さんは多くのがん患者を看取ってこられました。そこで(略)お聞きしたいのですが、ご自身ほ死ぬことが怖くはありませんか」
と問われて近藤医師がこんなふうに答えています。
「死が怖いと思ったことはありません。毎晩、眠るという行為を通じて、誰しも死を疑似体験しています。眠りと死の違いは、翌朝、目が覚めるかどうかだけ(笑)」

 私は死をもっと華やかなものを感じています。
 もちろん直前まで、息が苦しいとかあちこち痛いとかいった苦しみはあるかもしれませんが、“その瞬間”は信じられないほど膨大な多幸感に包まれると信じているのです。

 人間が死ぬのです。脳をはじめとする全臓器が仕事を終えるのです。そのとき肉体は全身をもって抵抗し、アドレナリンやらドーパミンオキシトシンなどが大量に生成・放出される――それが多幸感の源泉です。今まで味わったことのない爆発的な幸福感が押し寄せて来る――たぶん私は間違っていません。

 だって臨死体験者の多くがそんなふうに言っているじゃありませんか、少なくとも恐怖や悲惨を語る人は一人もいません(私の知る限り)。
 それが証拠です。

(この稿、続く)