「謝罪の話」~法律にないからと言っても謝らないわけにはいかない場合

 2002年から始まった映画「スパイダーマン」シリーズの第一作で、主人公のピーター・パーカーは老齢の伯父と伯母によって育てられていました。ところが映画序盤でタクシー・ドライバーをしていた伯父はピーターが見逃した強盗によって殺され、これによってピーターは正義の味方スパイダーマンとして生きる決意をします。
 ピーターは亡くなった伯父の連れ合い(伯母)に対して二重の負債を負っています。育ててもらったことと、それにもかかわらず防げた伯父の死を防がなかったという負債です。しかしそれにもかかわらず、2年後の「スパイダーマン2」で、ピーターは家を出て伯母にひとり暮らしをさせているのです。映画はそれをごく自然に描いていますから、2年たっても同居しているとしたらその方がよほど妙なのかもしれません。
 高校を出た子どもは独立しなければならない、親は老後を子どもに頼ってはいけない、というアメリカの掟は知っています。しかしここまで冷酷なものとは思いませんでした。

 さて、先週の高畑裕太強姦致傷事件について、母親が記者会見を開いたことで様々な議論が生まれています。そのひとつは「成年となった子どもの不祥事についても、親は謝罪しなければならないのか」といものです。しかしこれ、そんなに厄介な問題でしょうか?

 アメリカのように親子であっても個人主義が徹底している社会ならともかく、この日本では成年であろうと子どもが子どもである限り、親が謝罪するのは当然です。
 もちろん60歳の息子の不祥事に90歳の母親も出て行けとは言いません。「子どもが子どもである限り」というのは、「社会的に一人前でない間は」という意味で、きちんとした職業について家庭も営んでいる子どもなら、それがたとえ18歳でも敢えて親が出ていく必要はないでしょう。逆に30代だって、親がかりで自立していないとしたら親が出ていかなくてはならないのです。

 話が強姦致傷だの記者会見だのといった大きなことなので混乱するだけで、例えば交通事故で入院するほどのケガをさせた場合、親は子どもとともにお詫びに行きませんか? 両親ともにいないとかかなりの遠方で容易に来れないということならまだしも、親がそばにいながら22歳のガキが一人で詫びに来たとしたら、被害者はそれで納得するでしょうか? ずいぶん軽く見られたもんだと気分を悪くしませんか?
 いや、法的に親には責任はないはずだなどといった筋論は通用しません。そもそも謝罪というのは心の問題ですからそんなところに筋論を持ち込んでもこじれるだけです。

 子どもが被害を与えたら親も一緒に謝りに行く、夫が事故を起こしたら妻も一緒に頭を下げる、80歳過ぎの年寄りが誰かに被害を与えたら子もともに謝りに行く、そうしないと日本人は納得しないのです。被害者にとって理由なく心身を傷つけられるのは大ごとで、それにもかかわらず加害者家族にとっては重大事ではない――本人ひとりが謝りに行けばいい、その程度の小さなできごとだった――それでは被害者は我慢ならないのです。

 そうした感じ方・考え方は一個人・家族に限りません。
 企業が何らかの不祥事を起こしたとき、担当は課長だから課長ひとりで記者会見に臨めばいいと考えるような役員はひとりもいないでしょう。最終責任は社長にあるのだから社長一人でいいという話にもなりません。そこで私たちの良く知った風景にります。
 主だった役員が雁首を揃えて45度に上体を傾けて45秒。
 会社全体で責任を痛感している、社員すべてが心を痛めている――そういったことを示さないと社会は容赦しません。

 もちろん“社会が容赦しない”は家族や役員がそろって陳謝する第一の理由ではありません。
 普通の日本人は身内が加害者であることに、家族も企業の責任ある人たちも、背を向けていられないのです。心苦しいのです。誰かに謝らせてそれで済ませることができないからそうするのです。それが人情というものです。

 テレビのニュースショウを見ながら、どうして“専門家”たちがそうした話をしないのかいつも不思議に思います。もっとも“当然のこと”しか話さないとしたら“専門家”としての仕事がなくなってしまうからかもしれません。