後期研修会開始

 短い夏休みでしたが、どのようにお過ごしでしたか?

 私はオリンピックを見、法事を行い、長く手をつけていなかった家の片づけ(子どもいないモードへの変更)をしているうちに終わってしまいました。

 その間に考えることも様々だったわけですが、そのひとつはこのところ全国で続いた“教員不祥事”の問題です。

 胸に手を当てて考えれば私も男ですからやましい思いのひとつやふたつはないわけではありません。しかしそうした“思い”を実現しないのは、実現できない二重三重の壁があるからです。問題を起こした先生たちはその壁を軽々と乗り越えてしまったわけで、では、なぜ彼らはそんな事ができたのか、ということです。

 結論�@:情報が少なすぎて、よく分からない。

 結論�A:もしかしたらギリギリ、病気だったのかもしれない。

 二番目に考えていたことは大津の、いわゆる“いじめ自殺事件”のことです。

 夏休みに入ってから新たに出てきた情報や変化は、

�@女性教員が大けがをするような対教師暴力があったこと、

�A教育長が暴漢に襲われ、大津市役所には暴漢支持の電話が大量に入ったこと、

です。両方とも深く考えさせられることですが、やはり情報が不十分です。いじめ自殺と言われる事件そのものについて考えるにしても、「学校全体がどんな雰囲気にあったのか」「クラスはどうだったのか」「加害者(と言われる生徒)や被害者(と言われる生徒)の状況はどうだったのか」そういったことがもっともっと明らかにならなければ迂闊なことは言えないな、そう思いました(私は当該校が安定した、普通の学校のように考えて事件全体を構成していましたがそうではなかったのかもしれません。対教師暴力のある学校だという情報はそれまでありませんでした)。

 三番目は、「知識や技能というのは膨大な無駄に支えられている」ということです。

 自分自身の、そして家族の部屋を片付けながら、次々と出てくる膨大な書籍や教材、学校から配られたプリント類や様々な機材・機器、そういったものを次々と分類し廃棄しながら、時間的にも資金的にもそしてエネルギーの上でも、本当に無駄だったなあと思ったのです。

 特に二人の子どもが使った(正確にいえばほとんど使わなかった)参考書や問題集、私が買いためた大量の書籍、こうしたものは本当に必要だったのか・・・そして結論は、「やはり必要だった」ということになりました。

 例えば、私は読んだ書籍の百分の一も覚えていません。しかも実際に役に立つのは、覚えている部分の更に百分の一以下です。総計で一万分の一です。しかしその「役に立つ部分」を手に入れるためにはそれだけの本を読まなければならなかったのも事実です。結局ほとんど使わなかった子どもたちの教材も、現在の子どもたちの状況を生み出すためには必要なものでした(自分の学習能力を思い知る、浅はかさを思い知る、教材選択能力を思い知る、親の期待を具体的に感じるといった意味を含めて)。

 他にも多々感じることがありましたが、それらについてはおいおいお話ししていきたいと思います。