「モンスター」~津久井やまゆり園事件の話①

 人はどのようにして犯罪に至るのか――そういうことに興味があります。

 松本清張の小説のいくつかは市井の人々が殺人者となって行く過程を丁寧に描いていて、「ああこれだと確かに人殺しにもなるかもしれない」と思わせるリアリティがあります。それが松本清張の魅力ですが、現実世界はむしろ「いくら何でも殺すことはないだろう」と思わせる事例ばかりです。例えば先日の埼玉県東松山市16歳殺害事件など「うそをついたり、電話やメールを無視したりしたから殺した」。しかしそれが殺人の理由になるとしたら、世の中、人殺しだらけになってしまいます。
 殺人という重大な結果に対して、原因があまりにも貧弱――こうした結果と原因の非対称が謎のひとつです。

 もうひとつの謎は“その犯罪によって得ようとしたものと失うものとの非対称”です。
 例えば定年間近の教員のつまらない万引きや盗撮――わずか数百円の食品や女子高生の下着画像と引き換えに、職も家族も友人も退職金も失う。その愚かさを理解するのは困難です。
「気持ちとしては理解できる、見つからなければいいやという感じ方は分かる」
という人もいますが私には無理です。そもそも犯罪を犯しても見つからないだろうと想像すること自体ができません。
 もっとも「気持ちとしては理解できる」という人たちだって普通は行動に移したりしません。

 つまらない理由で犯罪を起こす、つまらない欲望のために大切なものを賭ける、なぜそういうことができるのか――私はそこに病的なものを感じざるを得ないのです。正確に言えば感じざるをえないというより、他のものを想定できないのです。

 それは例えば“軽く見られた”と思うとまったく抑制の利かなくなる感情の歪みです。
 欲しいものがあるとそれ以外が見えなくなる性向というのもあります。いい女がいると思うとホテルの部屋に引きずり込むことをためらわない心の偏向です。
 そうした心の歪みは本格的に生活に支障をきたし始めると“人格障害”等の名前がつきますが、その一歩手前の人々は本人が苦労したり周りが迷惑したりしながらなんとかこの世の中に生きています。

 一方、ストレスによる判断力の減衰、判断の遅れというものがあると私は信じています。自分のやっていることの意味を知りながら、実感がない。誰かほかの人がやっている感じで止められない、そもそも止めるということが思いつかない、そんな感じです。コンビニで菓子パンを手にしてそれをバッグに入れ、そのまま出てきてしまうような心の空白。店員の目は気にしても防犯カメラは気にならない心の落ち。そもそも菓子パンが欲しかったかどうかもわからないような上の空。そういうものがあるように思うのです。

 さて、上の二つについてはこれまでも何回か考えてきました。
 もちろん、だから罪を軽減せよと言うつもりはありませんし、実際の裁判でもそのために刑が軽くなった例はないと思います。しかし予防や教育・指導の観点から、原因を考えることは重要だと思ったからです。

 しかし今、困っているのはまったく別のものです。
 それは決してありふれたものではなく、極めて稀なのにそう考えて放置することもできないものです。

(この稿、続く)