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「教育用語の基礎知識」⑥〜向き合う・寄り添うC

 コーチングはひとことで言ってしまうと、人々の意欲を喚起し、望ましい形へと方向づける話法ないしは技法のことを言います(私の理解では)。その特徴は、傾聴し、質問し、承認を与えるというもので、理論的にどうのこうのというより訓練によって技術を高めようとする実践的なものです。日本では自己開発セミナーなどでよく扱われ、最近では教育の世界にも援用されるようになって、研修会などで勉強された先生も多いのではないでしょうか。私もそんなふうに出会いました。

 しかし何度教えてもらってもしっくりこない、どうにもはまってこない、そんな感じがありました。企業やスポーツチームの例ではよくわかるのに、教育現場に援用するとどうしても「?」なのです。なぜか? だいぶたってから気づいたのですが、これには二つの原因があります。

 ひとつはコーチングがカウンセリングから多くの示唆を得た言語活動だからということです。
 世の中にはカウンセリングがまったく通用しない2タイプの人々がいます。ひとつは言語を解さない、あるいは言語能力が極めて乏しい人です。代表は乳幼児と外国人です。小学校の高学年でもかなり難しいでしょう。実際、内省的で自分の心の内を正確に話せる小学生などそうはいませんから、この年代だと心理療法もカウンセリングより箱庭療法や遊戯療法が選ばれます。
 カウンセリングが有効でないもうひとつのタイプは、生活に不適応感を持っていない人々、例えば今まさにヤクザの構成員になって意気揚々としている人などは、周囲がどれほど変化を望んでもカウンセリングの対象にはなりません。本人が満足しきっていますから。
 そして(中学生ならまだしも)小学生のほとんどは双方の性格をもっています。したがってコーチングはうまく行きません。

 学校、特に小学校でコーチングを実践することが難しいもう一つの理由は、おそらく企業体やスポーツチームと学校現場の本質的な違いからきます。
 前者は多かれ少なかれ目的集団であるのに対し、後者は「同一地域に住む同年齢の子どもたち」という以外に何の共通点も目的も持っていません。前者では全員が多かれ少なかれ「収益を上げたい」「もっと収入を増やしたい」「強くなりたい」「勝ちたい」といった共通の願いを持っているのに後者はバラバラなのです。
 普通の学校の普通の子は、勉強をするために学校に来ているわけでもないし、学校の名前を高めようとか天下国家に資するためとかで来ているわけでもありません。ただ来いと言われたから来ているだけです。集団としての方向性がない。しかも彼らは道徳性や社会規範の上でも未成熟ですから、そうした制約も受けてない。
 そんな子どもの言うことを傾聴しても、埒のあかないことがたくさんあります。どちらを向いているのかわからないからです。それにまた、「傾聴」することによって「自分の言うことは傾聴に値する話」だといった誤解を与える危険もあります。したがってコーチングの技法はここでは生かせないのです。

 ところが、それにも関わらず、子どもに「寄り添う」ときは、子どもの言葉を傾聴し、質問し、承認を与えるというコーチングの技法がどうしても必要になる、そんなふうに思うのです。

(この稿、続く)