カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「いじめの国のドラえもん」2〜マイレジューム

 古典的ないじめっ子のジャイアン、何事にもそつのない出木杉君としずかちゃん、似ているようには見えないが実は相似形のスネ夫のび太、アニメ「ドラえもん」の世界は実によくできています。
 スネ夫のび太も余計なことを考えたり余計なことをしたりとけっこう面倒くさい人間ですが、のび太が「のび太ジャイアン症候群」で取り上げられるように極めて注意力散漫で周囲の思惑に鈍感なのに対し、スネ夫は(判断の遅れることもありますが)基本的に人間観察を怠りません。自分がまずい立場になりそうになると、言い訳をしたりごまをすったり、一目散に遁走したりとその場その場で適切な対応を取ろうとします。
 おそらくその変わり身の早さがジャイアンを手元に置き、のび太に対して優位な現在の地位を保たせているのでしょう。

 ある時期まで、スネ夫のび太も同じように周りの人間をあきれさせ、迷惑がられていたはずです。しかし他人の非を打ち鳴らす能力においてスネ夫のび太に勝っていました。とにかくああだこうだうるさい子ですから、年中のび太を攻め立てます。そうしてジャイアント一緒になって繰り返しのび太を責めているうちに、ある時期から自分の行っていることに別の意味を発見します。どうやらのび太を責めている間、非難が自分に集まることはなく、自分は安泰らしいということです。そう気づくとスネ夫は、今度は意図的にのび太の問題点を序ろい出そうとし始めます。
 のび太は欠点の多い子ですから攻め口はいくらでもあります。しかしほどなく、具体的事実などなくても、何とかやっていけるとスネ夫は確信します。のび太のび太だからいけないということにしてしまえばいいのです。
のび太のくせいに生意気だぞ!」
 ジャイアント一緒にそう言っていればいい時期が始まり、彼の身は相当に安泰になってきます。けれど何しろジャイアンは気まぐれです。いつそうした状況に変化が訪れるかわかりません。スネ夫は常に不安です。

 さて、30数年前、私のクラスで起こったことも似ています。
 最初、それは生意気で高慢な同級生に対する正義の闘争でした。嫌な思いをさせられた子が何人もいたのです。その尻馬に乗る形で(あるいは自分もその子に嫌な思いをさせられたと被害者意識を持つ子の中から)、少数の扇動者が立ち上がります。
 彼らは右手に正義の剣を持っています。だから誰も反対はできません。
 周りから責められる子は気の毒に思えますが、この段階だとまだ正常な人間関係、お互いに人格を鍛えあう鍛錬の一部とも言えます。しかし状況が長くなると、扇動者の一部の左手の裾から憎悪の剣が見え隠れするようになります。その子を動かす主な情念が、“被害者意識”“憤怒”“嫉妬”“絶望”“苛立ち”だからです。

 最初は小出しで、やがて次第に大胆に、その剣は振るわれます。
 悪口を書いたメモが回される、持ち物にいたずらされる、あからさまに無視される、黒板に悪口がかかれる・・・。
 その段階になると“正義”を叫んでいた者のうちの一部は腰が引けてきます。そこまでやったらマズイのではないかという疑念が持ち上がってきます。しかし主として振るわれていっるのは右手の剣ですから、この段階でも「もうやめよう」と言い出せない雰囲気が残っています。
 そしてやがて、誰の目にもいじめとしか見えない時期が来ます。しかしまだだれも止めません。止めることができないのです。

 今まで機会はいくらでもあったのに今さら大人に訴えることはできない、そう考える子たちがいます。訴えて「なぜ今まで言ってこなかった」と責められても困ります。こんなふうになるとは全く思わなかったからです。
 いじめを止めようとしたばかりに、自分がいじめられる側に追いやらられたらかなわないと、恐怖のために動けない子もいます。子ども社会のことは子どもの中で解決し大人に訴えてはいけない――それはいつの時代にも共通する不文津です。それを侵して“いじめられる側”に回ろうとすることは、なかなかできることではありません。
 そして扇動の中心にいる人物、いじめの首謀者も自分を止めることはできないのです。

 もうその段階になると当初の正義も被害者意識もどうでもよくなります。「誰の目にもいじめ」というのは「加害者の目にとってもいじめ」なのです。自分の行っていることが正しいことだと思えた時期はとうに去っています。しかし今、手を緩めれば仲間は次々と消えてしまい、「気がつけばいじめているのは自分だけ」ということになりかねません。

 ジャイアンと一緒に「のび太のくせに生意気だ!」と言っていられる間、スネ夫は安泰です。しかしのび太が転校でもしていなくなってしまうと、攻撃を受ける可能性のあるのはスネ夫ひとりになってしまいます。

 おなじように、今、責めている「クラスの悪者」がいなくなると、教室の中で一番悪い子は自分だということになりかねません。「あの子に『クラスの悪者』を続けてもらわない限り、「私の安全はない」のです。だからやめるわけにはいかない。

 世の中のすべてがそうだというわけではありませんが、少なくとも私のクラスで起こったのは、そういうことだと今は解釈しています。

(この稿、続く)