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「後拾遺」〜岩手いじめ自殺事件の違和感Ⅶ

3 人は何によって死ぬのか

 だいぶ昔のことですが、新作の小説に立て続けに二回、“歯が痛くて自殺した男”の話が出てきたことがあります。あまりにも突飛な話ですから一方が他方の剽窃ということはないでしょう。小説家の心を駆り立てるそうした事実があったのかと思うのです。
 人は歯痛で自殺することができるのか――。
“最期の引き金”という意味では大いにあり得ると思います。莫大な借金が銃を買わせ、家族の離反が弾倉に弾を込めさせ、孤立無援が銃口をこめかみに向けさせ、そうしたぎりぎりの状態でにっちもさっちも行かない時、たまたま歯が痛くなって“最後の引き金”を引かせるといったものです。このとき、歯痛は自殺の原因とも言えますが、原因ではないという言い方もできます。非常に厄介なところです。
 村松君のことについてはこれから調査が行われるので別ですが、これまで「いじめ=自殺事件」と呼ばれる者の多くが「いじめはあったが自殺との因果関係は分からない」という形で落ち着いてしまうのはすべてそのためです。
 いじめの被害者が生き残って加害者との間で事実の摺り合わせが行われれば、「何があったのか」も「それが被害者・加害者双方にとってどういう意味をもったのか」も明らかにできたはずです。いかし一方が亡くなってしまうとそれもできません。
 よほど明確な事実の出てこない限り、ほんとうのことは本人にしか分かりませんし、もしかしたら本人にも分からないのです。自殺は、その意味でも大きな損失といえます。

4 解釈可能ないじめと暴力

 しかし、世の中の「いじめ事件」の一部には非常に分かりやすいものがあります。
 ひとつは金の動いている場合です。暴力を使えば金が引き出せる、あるいは暴力をちらつかせるだけで資金が提供される、そうなると暴力は収まりません。被害者が出ししぶればその分、暴力は苛烈になって行きます。
 もうこれ以上お金は出せないというところまで至ると被害者は死を考えます。困っているのに親に相談できないのは、多くの場合、親を裏切ってそこから金を盗んでいるからです。裏切っている相手に助けを求めるわけにはいきません。
 もうひとつ、暴力が苛烈になるのは「裏切りの代償」が求められている場合です。
 今年(2015年)2月の神奈川県川崎市の中1年生殺害事件は、グループのリーダーに他の不良グループが説教をしたからだと私は思っています。可愛がっていた舎弟が他の組織に助けを求めた(と考えた)のです。リーダーは傷つき、報復は当然と考えました。こういう場合、暴力は容赦なくなります。“悪いのはアイツ”だからです。
 ただしこの二つは、前者を「恐喝」、後者を「カツ入れ」だと言えばずっと分かりやすかったはずです。これらを「いじめ」と呼ぶから話が厄介になるのです。

5 事実が確定しない段階で、簡単にいじめを認めてはいけないと思う

 今回の村松君の事件では、相当早い段階で教委が「いじめ」の可能性を示唆し、「いじめがあったという前提」での調査を始めています。教育長は「事実上(いじめが自殺の)一因であると言わざるを得ない」と語ったと伝えられていますが、私にはこの対応が正しいとは思えません。なぜならそれ以前から、「事実上(いじめが自殺の)一因」となった首謀者の詮索が行われているからです。
 教育長の一言によって、矢巾中学校の生徒のひとりが村松君を死に追いやったという事実が確定しました。やがて“犯人”は暴き出され、現実社会では問題にならなくてもネット社会で永遠に糾弾され続けるかもしれません。
 私には、それが正しいとはどうしても思えないのです。

(この稿、終了)