カイト・カフェ

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「先生たちはバカなのです」3 〜マイ・レジューム⑨

  学校も教員も非常に誤解されやすい存在ですが、それは世間の人たちが、
「教員はほんとうにまじめで誠実で、素直でウソがなく、常に児童生徒のことを第一に考えている馬鹿みたいな人たちだ」
ということを知らない、または前提として考えないからです。ですからそうと知っていれば犯さない過ちをしばしば犯します。

 例えば、いじめ自殺といった事件に際して学校から情報が出されないこと、いじめを認めないことに社会もマスコミはイラつきます。イラついた上で、
「学校の隠ぺい体質」「教育委員会の保身」といった妙な見出しが紙面に踊ります。テレビではその筋の“専門家”たちが、
「教師や校長が自らの出世のために事実を覆い隠そうとしている」など平気で話したりします。
 これなど誤解も甚だしいというより頓珍漢です。学校関係者でなくても首を傾げます。
“校長先生の出世の次のステップってなんだ?”

 世間の人々は「まあ“専門家”がテレビという公器を使って行う発言だから、一般には知られていない何かがあるのだろう」と納得します(たぶん)。しかし教員は置き去りです。
 校長職は「ヒラ教員―副校長―校長」という2ステップしかない昇進の終着点なので、「校長が出世のために事実を隠す」というとき、“専門家”が何を考え世間がどう受け取ったか、さっぱり分かりません。

 そもそも「いじめの事実を隠したら処分ないしは出世に響く」などということはあり得ません。そんなことをしたら一斉に隠ぺいが始まってしまうからです。いくら正直な教員とはいえ、クラスにいじめがあったと報告すれば馘首または減俸ということになれば、とにかく誰にも相談せずに自分で解決してしまおうと躍起になります。それでうまくいけばいいのですが、そうでなければ大変です。結果は火を見るよりも明らかです。

 それにもかかわらず「出世に響く」だの「保身」だのと、なぜマスコミはそんなバカげた考え方をするのでしょうか?
 ――結局、これだけメディアスクラムをかけても口を割らない学校というものが分からないのです。
 ただ「いじめがありました」「それが理由の自殺です」と言えばいいだけなのに、どうしてそこまで頑張るのか――だから“出世”だの“保身”だのと言った俗世の価値観ではかるろうとするのです。

 しかし学校は俗世とは異なり、バカみたいな善人がいっぱいいるところです。彼らは出世や金や名誉によって動かされるのではなく、正義と善意によって動かされます。「子どものために」というスローガンの下で何でも耐えてきたような人たちです。
 彼らは今、本気で、身を挺して生徒を守ろうとしているのです。いじめの“加害者”とされる生徒とその他すべての生徒を、です。

 2011年に滋賀県で起こったいわゆる「いじめ自殺事件」では、“加害者”の一人とされた生徒の母親が異常な行動に出ます。息子は加害者ではないというチラシを作って配布したり、「からかっただけでいじめではない」と説得して回ったり――それはみじめと言ってもいいほど必死な様子だったようです。
 彼女にも言い分があります。それは、
「学校からいじめ自殺の加害者だと認定されたら、その子は生きていけない」
ということです。息子が殺人事件の犯人で警察に逮捕されたというような話なら引き下がりもします。しかし客観的にいじめといっていい行為があったかどうかは不明で、それが自殺の原因になったという確証のない段階で、十分な捜査能力も権限もない学校から息子の「社会的死刑」を言い渡されてはかなわないと思っているのです。
 このまま何もしないでいると、マスコミも世間もウチの息子のいじめのせいで同級生が自殺したという方向に流れてしまう、ネット上では名前と顔を晒され、延々と流れ続ける、進学にも就職にも差しさわりがあるかもしれない、いやきっとそうなる――そう考えると、いてもたってもいられなかったのです。

 学校も同じです。
 自殺があったのは動かしがたい事実ですが、“いじめ”と呼んでいい事実があったかどうかは十分に時間をかけて調べなければなりません。仮にいじめがあったとして、それが自殺の原因であったかどうかはまた別の判断が必要になります。人はもしかしたら単一の理由で死ぬものではないのかもしれません。だとしたら様々な要素が検討されなくてはなりません。
 確かにその通りだ、これだけのことをされれば自殺を考えても不思議はない――それだけの事実が出てくれば 学校としても認めるにやぶさかではありません。しかし事実が確定しない段階で学校が認めることは、 安易に生徒に対して社会的死刑を宣告するのと同じです。
 そんなことは絶対にできません。
 それが「いじめ自殺」を認めない学校の立場なのです。

 もっとも、近ごろはあっけないほど「いじめが自殺の原因だ」と認めるケースが多くなっています。昨年の仙台の事例などはまさにそうで、十分な調査の行われる前に学校・教委双方で認めてしまいました。大津の事件に懲りたからでしょうか。
 私はそんなに簡単に(加害)生徒を見捨てるべきではないと思っていました。しかし事実は逆なのかも知れません。
 学校や教委が認めてしまえばマスコミもネット住民も、あきれるほど簡単に手を引いてくれることがわかってきたからです。その方が(加害者とされる)生徒を守ることができると判断が変わってきたのかもしれません。 

(この稿、続く)