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「いじめの指導が難しいのは、心を問題にするからだ」~不登校もいじめも過去最多について③

いじめかどうかは被害にあった子が「心身に苦痛を感じている」かどうかで決まる。
いじめの指導が難しいのはそのためだ。みんなで苦痛の見積もりが異なる。
しかし具体的行為については、乖離はそれほど広がらないだろう。
心の指導なんて、落ち着いた時間に、日常的にやればいいのだ。
という話。(写真:フォトAC)

カエサルのものはカエサルに】

 あだ名で呼ぶことを含めて、軽微なからかいから恐喝・傷害事案まで、いじめと疑われるものはすべて収集したいという文科省の欲望も分からないわけではありませんが、指導する側からすれば程度によって指導方法がまったく異なりますから、十把一絡げに「いじめ」と言われても困る場合も少なくありません。
 特に恐喝・傷害事案などはむしろ指導しやすい範疇に入りますから、これを「いじめ」として問題を難しくするより、「犯罪」としてさっさと処理した方がみんなの利益になると思うのですがいかがでしょう。
カエサルのものはカエサルに、犯罪行為は犯罪に」ということです。

 なぜ犯罪の指導はしやすいのかというと、事実さえ証明してしまえば誰が悪いのか、問題解決はどうすればよいのか、みんな知っているからです。
 何も片っぱし警察に突き出せというのではありません。友だちを殴ってけがを負わせたら保護者と連れ立って相手方に詫びを入れ、治療費を支払えばいいのです。菓子折りのひとつくらいは持って行く必要があるでしょう。恐喝だったらやはり保護者と頭を下げに行き、脅し取った金品を弁済します。
 言うまでもなくそれで被害者親子が許してくれるとは限りません。場合によっては被害届の提出、告訴といったことに発展することもありますが、それは仕方がないでしょう。悪いことをしたのですから相応の罰は受けざるを得ません。これもみんなが知っていることです。しかしいじめ事件として扱うと、ことは簡単に済まなくなります。

【いじめる側の三分の理】

 「いじめ事件で被害者に非があるということは絶対にない。悪いのは100%加害者だ」といった言い方をする人がいます。しかしそんなことはありません。「定義」に従えば、いじめは「当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う」ものです。奴隷制度ではないのですから人間関係で100対ゼロということはまずありません。
 
 「いっしょの係になったが、愚図でいい加減で、仕事を押し付けてくるから」
 「やたらと付きまとって、遠ざけても絡んでくるから」
 「家が金持ちで高級な生活をしていることを自慢してくるから」
 「生意気だから」
 いじめの加害者に理由を聞けば、何かしらそれらしいことを言ってきます。もちろんだからと言っていじめていい理由にはなりませんし客観的に納得できない場合も多いのですが、そのいじめる側の「三分の理」を潰すのは意外に厄介なのです。なぜなら彼らの訴える被害者の以前の言動は、多くの場合事実であって、加害者にとって「当該行為の対象となった児童生徒(加害者本人)が心身の苦痛を感じているもの」だからです。自分だって先にいやな思いをさせられた、ということです。
 
 こうして「互いに嫌な思いをさせ合った」という形で事実が相殺されると、残るのは「どちらが先に手を出した」ということだけになって、本来の被害者が悪者になってしまいます。「いじめ」の実態がこうだと言うのではありません。加害者の意識の中で起こっていることがそれだというのです。そして心の中にそんな言い訳がデンと座っている限り、深い反省など及びもつかず、また同じことが繰り返されます。

【いじめの指導が難しいのは、心を問題にするからだ】

 なぜいじめの指導がこれほど難しくなるかというと、いじめが「心身の苦痛」を問題にするからです。
 これが恐喝や傷害なら簡単で、恐喝なら奪い取った金品の額によって、傷害なら全治何週間とか治療費で簡単に数値化できますが、「心身の苦痛」は計測不能で天井知らずだからです。ある子にとっては全身全霊で訴えなければならないことでも、他の子だと容易に耐えられるということもあります。一昨日の女の子の、
「私だって昔、同じ目に遭った。でも何も言わなかった。それなのにあの子、『いじめ』『いじめ』ってうるさいのよ」
も、そういう違いかもしれませんし、さきほどお話した、いじめの加害者が自分の行為を被害者の言動と相殺できてしまうのも、心の苦痛の見積もりが等価だと判断したからなのでしょう。

 また、保護者の受け止めも、我が子が「暴力を受けた」と言われるのと「いじめを受けた」と言われるのとではまったく違って来るでしょう。将来発症するかもしれないPTSDのことまで考えると、いじめの被害は無限大です。親が容易に許す気になれなくても不思議ありません。加害者の親も、我が子が「人を殴ってけがをさせた」と知らされるのと「いじめの加害者」だと言われるのとでは違ってくるように思います。
 目に見えない「心の苦痛」をそれぞれの立場から見積もるわけですから、全員の話が噛み合わなくなる――だから厄介なのです。

【心の問題は、事件を閉じてからじっくり扱う】

 多くのいじめ事件に暴力と金がつきまとっています。特に「いじめ防止対策推進法」で重大事態と定義されるような大きな事件では、繰り返し暴力が振るわれたり金品を搾り取られたりする場合が少なくありません。だとしたら問題が大きくなる前に、それを恐喝事件や傷害事件として解決してしまうことが賢明ではないのかと思うのです。そうすれば簡単に、しかもほぼ確実に片が付く。
 
 心を問題にすると道徳的な処置もしなくてはならなくなりますし、相手も素直になれません。しかし殴ったことを謝りなさい、奪い取ったことを謝りなさいなら、難しい問題を簡単に回避できるのです。
 
 重要なことはいま起こっていることにブレーキをかけることです。
 心の問題は事件が一応解決した後の別の時に、道徳の時間などを使ってじっくりゆっくりやればいいことです。
 (この稿、続く)