「素っ気ないノートはいかにしてつくられたか」②〜岩手いじめ自殺事件の違和感 Ⅲ

「ボクはほんとうにイヤになった。死のうと思います」
 そのとき学級担任としてどんな返事をするのか――このとき最も愚かな対応はきちんとした返事を書こうとすることです。
 私は文章を書くことが好きですし原稿用紙1〜2枚分の文章はほとんど苦にしません。しかし「いじめ」だの「自殺」だのといった話題に対して原稿用紙1〜2枚で語ろうとするのはやはり愚かなのです。

 こうしたとき学級担任がまず考えるのは、「いつこの生徒と話をしようか」ということです。
 午前の空き時間でそれを読んだとすれば第一候補は昼休みになります。相談室を占拠できれば清掃時間をつぶしてでも話ができます。しかし午後の時間に読んだとすれば少々厄介です。生徒にも教師にも適切な時間が残っていないからです。
 しかたなく教師と生徒双方の部活動を犠牲にします。重要な会議が入っていても事情を話せば容赦してもらえます。“自殺”だの”いじめ“だのと言っている最中に「会議に出ろ」という管理職はいないからです。首がかかります。
 そんなふうに面談の予定を立てて、さて生活記録ノートに戻ります。早急に面談すると決めてからの一行をどう書くのか。

 基本的には何も書かなくてもいいようなものですが、読んだ印の「◎」だけでは素っ気なさすぎます。かといって本文に関わる何かを書いて的外れなことになるのもいやです。面談で話を聞いたらとんでもない事実が出て来るということだってあるのですから。
「昼休みに話を聞こう」もだめ。 “ノート”が生徒の元に戻るのはずっと後の帰りの会になるからです。
「放課後、話をしよう」もありえません。部活の調整をしなくてはならないので面談の約束はずっと早くしておく必要があるからです。
 かくして時に表現はおざなりなものになったりします。

「ボクはほんとうにイヤになった。死のうと思います」
 →「何があった? 詳しく言ってごらん」
「実はボクさんざんいままで苦しんでたんスよ?なぐられたりけられたり首しめられたりこちょがされたり悪口言われたり!」
 →「そんなことがあったの??それは大変、いつ??解決したの?」
「ボクがいつ消えるかはわかりません。ですが、先生からたくさん希望をもらいました。感謝しています。もう少し頑張ってみます。ただ、もう市<死>ぬ場所はきまってるんですけどね。まぁいいか。」
 → 明日からの研修たのしみましょうね。
 素っ気ない、トンチンカンな生活記録ノートはこうして生まれます。後でしっかりと話を聞く、対応するという気持ちがあるので、ノートのやり取りはいい加減なのです。そのおざなりな返答すらないときは、安易な声がけはできないと感じたときなのかもしれません。

 私は村松君の担任教師は、ある程度誠実に事態に向かい合ったのだと思っています。そうでなければ村松君が繰り返し窮状を訴えたり感謝の気持ちを伝えたりしないと思うからです。男女に限らず中学校2年生くらいの子どもは見切りが早いのです。「この先公ダメだ」と思ったら二度と口をきいてくれません。



 ただしそれにしても、結果論で言えばやはり担任は重大なミスを犯したというしかありません。生徒が亡くなったのですから。
 受け持ちの子が死ぬかもしれない、そうした状況で四方八方手を尽くしたというふうには見えない、少なくとも保護者に知らせその支援を仰ぐべきだった、それが常識的な考え方です。
 しかしそれをしなかった。
 担任教師は何を見誤ったのでしょう?

(この稿、続く)