「いびつな言語感覚」③

 学校に関わる重大な事件が起こった時、それぞれの管轄教育委員会が「子どもの心のケアのためにカウンセラーを派遣します」と発言することが常となっています。とりあえずそう言っておかないと済まない、そう言っておけば当座はやり過ごせるといった感じも受けないわけではありませんが、だからといって別に有効な方策があるわけではなく、それはそれで仕方ないという思いもあります。

 ただし私は「心のケア」というものをあまり信じていません。
 身体の中に「心」という実体があって、それが治療可能だという感じがいまひとつピンときません。少なくとも医師が同じ病気に標準的な治療を行い同じように治す――そんな感じでカウンセラーが「心のケア」に成功するとは思わないのです。
 うまく行った場合も多くを個人的な能力に負っているのであり、人格者と言っていいような人に出会えばうまく行き、そうでなければうまく行かない、そういった印象を持っています。
 同じ修行を積んでも成功する者とそうでない者が出るのは、科学とは言えません。芸術です。そして芸術である以上、結果にはおのずと差が出ます。
(以上、ここまでが前置きです。ただしカウンセリングに対する恨みつらみは、20年以上以前、不登校の指導を通して子どもを休ませたがる精神科医臨床心理士と、繰り返し対立してきた私怨があるからで、その分は差し引かなくてはなりません)

 さて、「心のケア」は信じないにしてもそれが最終的に目指すものは理解できます。問題を抱える子がどうなると「心のケア」が果たされたことになるのかと――それは「問題の対象化」です。しばしば「モノ化」とルビがふられるように、心の中にあるものをまるで外部の「モノ」であるかのようにしげしげと眺め、語ることができるようにすることです。

 例えば事件に遭遇して何かを感じ、何かを動かされて凝り固まった内側のものを、温め、解きほぐし、言葉の形にして外部に押し出すこと、それが対象化で、対象化が終われば治療は終了となります。それは病巣を取り出すのと同じですが、切り取るのではなく、絞り出すといった感じになるものです。
 対象化は日常の中でもしばしば経験させられます。
 偶然読んだ小説の一部分に、ぼんやりと聞いていた歌の歌詞の一部に、「ああこれが私の思っていたことだ」と感じる、あの心の動きです。仲のいい友だちとの話の中で自分の話を反芻する友人の言葉の中に「自分の本当の気持ち」を発見すること、逆に、友だちに相談される中で相手の悩みの中に自分を発見すること、それらはすべて同じ「対象化」です。

 だとしたらそういった偶然を介さず(精神科医やカウンセラーも介さず)、常に自分の力で問題を対象化する能力を高めれば、多くの問題はおのずと消えて行ってしまうはずです。

 そのために何をするのか――。
 それは言うに簡単で成すに難しいことですが、要するに言語感覚を磨くこと、そして表現力を高めることです。自分の内なるものをいつも言葉として外部に押し出す訓練を続けることです。

 まだ言葉がきちんと話せない時期から、時間をかけ丁寧に、その思いが言葉にできるよう支援を続けることです。