明治・大正までさかのぼると、教師は地域のトップエリートでした。
田舎の頭の良い子で、親がそこそこの金持ちとなるとどうしても大学に行きたがる。そこで都会の大学に出したはいいが、長男だとか何かで家に戻らなければならなくなると、田舎に大学出の就職口などほとんどなく、結局、教師にでもなるしかないということに落ち着きます。
大学出などほとんどいない時代ですので、学校は村のエリートの集まるところとなります。
その中から、夏目漱石、芥川龍之介、島崎藤村、与謝野晶子、宮沢賢治、石川啄木、宇野千代、中島敦、そういった人たちが現れてきたわけです。当時の学校はとんでもない世界でした。
夏目漱石の「坊ちゃん」などを読むと、そうした時代のエリートの、ウサン臭さもプンプンにおってきます。その匂いは、しかしずいぶんと薄まって私が教員になった30数年前にも残っていました。教員にエリート意識があったというのではありません。エリート時代の残滓、気風が残っていたということです。
例えば「職員文集」。
以前、勤めていた学校の書庫を漁っていたら昔の職員文集が出てきて、それが和綴じだったという話はこのブログでも書きました(2008/10/2)。最終号は1990年代中ごろですから、昭和はもちろん、平成に入ってからもしばらくの間は「教師たるもの一年に一度は居ずまいを正してきちんとした文章を書くべきだ」といった気風があったのです。私もずいぶんと長い文を載せました。
あるいは「読み合わせ」。
一冊の本を定め、職員全体で一年かかって読み、検討するというものです。一般の教育書ばかりでなく、西田幾多郎の「善の研究」だとか道元の「典座教訓」とかやたら難しい本ばかりが選ばれます。カントの「純粋理性批判」を“とりあえず読めるところまで”という約束で始めたときは、ほとんど絶望的でした。
そして「同好会」。
いわば先生たちの部活動で、「陶芸」「書道」「合唱」「手芸」「ソフトボール」「バレーボール」等々、先生たちが勝手につくるものですから学校によってずいぶん偏りがあり、中学校では文化祭での職員展に向けての制作という側面もありました。私は「演劇同好会」で市民劇場に会費を払い3か月に一度くらいの割合で観劇にいったものです。ソフトボールやバレーボールでは近隣の学校との対抗試合もありました。
私は文章を書くのが好きでしたから職員文集はとても気に入っていました。読み合わせは何といっても題材が厄介すぎましたし、一年かかって読むというのが性に合わず好きになれませんでした。
同好会は――可もなく不可もなく。ただし演劇の公演日と仕事が重なってしまい、会費がもったいないこともしばしばあって、それは不満でした。
(この稿、続く)