カイト・カフェ

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「子どもを『受け止める』とは、こういうことだ」~不登校もいじめも過去最多について⑧

自分の心の中の曖昧模糊としたものに形を与える、
その手伝いをするのがカウンセリングだ。
不登校からの回復があったとすれば、
そこに優秀なカウンセラーがいたはずで、おそらくそれは親だったのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【カウンセリングとは何か】

 カウンセリングとは何か。
 私はそれを、
 「来談者本人が、心の中にある曖昧模糊とした不安や苦しみ、悩みや哀しみ、怒りなどを、見えるかたちに表現するためのお手伝い」
 と考えています。
 心の中のはっきりしないものを見える形にすることを、対象化とか客体化とか、あるいはモノ化と言います。私個人は「モノ化」が一番しっくりします。手に取ってしげしげと観察できるようなものにしたいからです。
 曖昧だから恐ろしいもの、模糊としているから果てしなく続くと思えるものも、手に取るように見たり感じたりできるようになると案外たいしたことはないのです。カウンセラーの仕事は大抵そこまでで、あとは自分で何とかします。

 表現の方法は何であってもかまいません。
 草間彌生はある時期、頭の中を駆け巡る赤い水玉を絵画にし、黄色のオバケカボチャを造形にし、いまはうごめく大量に虫や目で表現しています。ムンクは頭の中で鳴り響く耐えがたい“叫び”に思わず耳をふさぎ、自らも恐怖に叫ぶ姿をそのまま絵画にしました。彼らはそうして精神の平衡を保つのです。
 もしかしたらベートーベンは実際に“運命”がドアを叩く音を聞き、最晩年のモーツァルトは鎮魂歌の依頼に来た死神と話したのかもしれません。
 
 画家は絵画で、作曲は音楽で表現すればいいのですが、私たち普通の人間には使い慣れた「言語の表現」が近道です。だから面談という形式が取られます。
 しかし言語が未発達な子どもたちには箱庭や絵画、あるいはごっこ遊びがふさわしく、震災の避難所で子どもたちが”地震ごっこ“を始めたり、難民キャンプの子どもが”戦争ごっこ“をするのを、大人が止めないのもそのためです。

不登校からの回復=側に優秀なカウンセラーがいたはずだ】

 人によって異なりますが、こころの治療はひじょうに時間がかかるのが常です。だから私などは「心の病がカウンセリングで治るのか?」とか、「治ったといっても5年もかけたのではカウンセリングのおかげかどうか分からないじゃないか」とか今も思ったりします。しかし昨日も申し上げた通り、毎週1回とか2回とか、それも各1時間をかけるような集中的でゆったりとした治療ができれば、かなりの効果が出るのではないかとも思ってもいます。しかし実際そんな対応をしてくれる医師もカウンセラーもおそらくいません。費用もハンパなくかかりそうです。
 では実際に不登校から回復した子どもたちは、だれのどんな支援によってそうなったのか――。

 そこで私が思うのは、家族が、特に親がカウンセラーの役割を果たした可能性です。医師やカウンセラーの助言を借りながら、「本人が、心の中にある曖昧模糊とした不安や苦しみ、悩みや哀しみ、怒りなどを、見えるかたちに表現するためのお手伝い」を、父親や母親がしたのではないかということです。
 親だったら週二日とは言わず毎日カウンセリングができますし、1時間どころか何時間でも心行くまで話を聞くことができます。しかし一方、親ほどカウンセリングに不向きな存在もありません。なぜなら彼らは一番身近な利害関係者であり、もしかしたら子どもをそこまで追い込んだ張本人かも知れないからです。
 何を聞いても何を話しても、その一言ひとことは明日の家族の具体的な生活に繋がります。子どもにしてみればひとつ本当のことを話したばかり百の説教を食らう可能性もありますし、親にしても「明日から学校に行かない。たぶんこのままずうっと行かない」と言われて、「そういう生き方もあるね」と受け入れることは簡単ではありません。
 それでも「受け止めろ」「受け入れろ」「そのままのキミでいい」といったことができたとしたら、彼らに何が起こっていたのか――。

【子どもを「受け止める」とはこういうことだ】

 昨日紹介した「金属バット殺人事件『うちのお父さんは優しい』」で息子を殺してしまった父親も裁判のあとでこんな話をしています。
「私が1番思うのは、家庭内暴力の対応を巡って、間違ったことは暴力を受け入れたことです。子どもを受け入れることと切り離していかなければいけなかったと思います」
「暴力を受け入れてはだめだが、不安とか苦しみ、悩みだけでなく、怒りも受けとめてあげる、それを言葉に表すように援助してあげるという形で、受けとめる、暴力は厳しく止める、原則としてそうだと思っています」
 つまりその子が今、暴力や暴言、親が受け入れられないような態度といった誤った形で表現してるものを、正しい言葉で表現できるよう援助してあげる、援助し続ける、そのこと自体が「受けとめる」ことなのだ、というのです。
 それはある意味で、父親がカウンセラーから与えられた指示、
「子どもたちの問題行動を前にしてまず大切なのは彼らが言葉に出来ない気持ちを行動の背後に訴えているのを読み取る努力をすることです」
と同じものなのですが、決定的に違うのは「言葉にできない気持ち」を「親が読み取る」のではなく、「子どもが自身の口で表現できるよう、援助する」、そのことが「受け止める」ことなのだとこの父親は言うのです。

 カウンセリングとは「来談者本人が、心の中にある曖昧模糊とした不安や苦しみ、悩みや哀しみ、怒りなどを、見えるかたちに表現するためのお手伝い」だ、ということと考え合わせると、自ずとすべきことが分かってきます。
(この稿、次回最終)