カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「男の子の育て方、女の子の育て方」①

 ジャン=ポール・サルトルは20世紀最大の哲学者で、かつ信じられないくらいあっさりと忘れ去られた人です(これを「サルトル忘却」と言います)。それはサルトル自身が自らの実存主義哲学をマルクス主義の下位思想と位置づけ、そのマルクス主義ソ連崩壊とともに忘れ去られたからです。構造主義という考え方が実存主義に取って代わりました。

 そのサルトルの事実上の妻、シモーヌ・ド・ボーヴォワールフェミニズムの立場から女性解放を熱烈に主張した活動家でしたが、彼女の残した言葉にこういうものがあります。
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(「第二の性」)
 女性性(女らしさ)というのは社会的なものであって、生まれたときには男女の別はない。女性は男社会によって女性を押し付けられているのだという主張です。
 私はマルクスサルトルを読まなければ学生ではないと言われた世代の、すぐその下の世代ですが、それでも社会主義経済学や実存主義は齧らないわけにいきませんでした。そしてボーヴォワールにも心惹かれ、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」は女性問題を考える上での基礎となる理念として大切にしてきたのです。父親になるまでは・・・。
 つまるところボーヴォワールは子どもを産まなかったし育てもしなかったからだと言えば失礼でしょう。けれど世界に発言するのだったら、もう少し人間(乳幼児)観察をすべきでした。(*注)
 男女二人の子どもを育てた私は、自信をもって断言します。男の子は男の子に生まれ、女の子は女の子に生まれます。男の子を女の子のように育てても絶対に女性にはなりませんし、逆も同じです。

 結婚の遅かった私は親になるのも遅く、長女が生まれたときはすでに36歳でした。若くして親になり共育ちのように成長していくのもいいでしょうが、遅く親になる有利さもあって、さまざまな不安を抱えることもなく、自信をもって育てることができました。社会的にうまく事が運ぶようになって、職業柄、子どもに関する知識もたくさん持つようになっていたからです。娘は大病をすることもなく、すくすくと育ちました。
 ところが、その自信が崩れるのは一瞬でした。4年後、弟が生まれると私の慢心はいっぺんに吹っ飛んだのです。娘がすくすくと育ったのは私たちに力があったのではなく、女の子が育てやすかっただけなのです。

 息子は生まれる前から切迫早産で母親を悩ませます。生まれて最初の検診で異常が発見され、小児がんの可能性があるとか言われて専門病院を紹介されたりします。血液検査の何かの数値が決定的に高く、可能性としては睾丸のがんかもしれないというのです。
 クーハンと呼ばれる小さな籠に息子を入れて、県内で最大の病院で丸半日検査していただきました。長い長い待ち時間の間、妻が、
「もし本当にがんで“切っちゃう”ってことになったら、将来はお坊さんかな?」
とつぶやき、《そういう問題じゃあないだろう》と心に思ったことを記憶しています。

 車付きの歩行器に乗せておいたらそのまま廊下をダッシュして玄関のタタキに落下、目の上を3針縫う。つたい歩きの時期にテーブルクロス抜きを試みて淹れたてのコーヒーを全身に被る。歩き始めるとさらに危険で押入れの上の段から飛び降りて骨折をする。入院も頻繁で肺炎で入院した病院から胃腸炎の治療を終えて退院してくる(肺炎の退院予定日に院内感染で胃腸炎になった)。山の中で迷子になる・・・。「この子、10歳になるまで生きていないかもしれない」、そんなふうに思ったのもそのころです。

 息子が娘と決定的に違うと思ったのはテレビ番組でした。番組は基本的に姉に合わせて見ていたのですが当時娘が夢中になっていた「セーラームーン」には反応がイマイチだったのです。なんとなくぼんやりと見ていて気持ちが入っていないのです。ところがある日、間違って「仮面ライダー」に合わせてしまったらこれがもう大変。目がほとんど“テン”で一気に引き込まれていくのです。以来、息子は“バンバン(拳銃)”に夢中で現在もエアガンを持ってサバイバルゲームに出かけているみたいです。

 ボーヴォワール女史よ、男の子は男の子に、女の子は女の子に生まれてくるのです。

*「子供を持たなかった事を後悔していないか?」という質問を受けて、ボーヴォワールは「全然! 私の知っている親子関係、ことに母娘関係ときたら、それはそれは凄まじいですよ。私はその逆で、そんな関係を持たずに済んで、本当にありがたいわ」と答えています。特殊な親子関係しか見ていなかったのでしょう。