カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「日本的おもてなしへの郷愁」~嫌なら他へ行ってくんな!

 冬の奈良・室生に行ったことがあります。30年以上も前のことです。
 急に思いついて出かけた旅なので出発も遅く、室生口大野駅についた時点で午後4時を大きく過ぎ、室生川を渡って仁王門が見えたときはほとんど閉門の直前でした。
 中から男の人が「もうすぐ閉めますよ、急いで」と叫ぶので橋のたもとから必死に走り、何とか参拝料を払って中に入りました。
 参拝時間は5時までなのでそこから一気に走り、国宝の五重塔から奥の院まで行ってそこからまた駆けるように下ってきました。すると門は閉まっておらず(そもそも閉まるような門であったかどうか)、遅れてきた観光客がお金も払わず登ってくるところでした。何のことはない、走らずにゆっくりと行けば無料で参拝できたのです。
(現在は柵で囲まれていて時間外には入れません。しかもセキュリティシステム付き)

 そのまま駅まで戻ったのですがすでに6時近く。駅前に旅館はなく、観光案内で聞くと車で15分ほどのところにある一軒しか紹介できないとのこと。シーズンオフですから選択の余地がありません。貧乏旅でいやだったのですが仕方なくタクシーを雇い、山間の温泉旅館へ向かうことになりました。走り出すとすぐに谷あいの細い道に入り、なるほど言われた通り歩かずに良かったと思いました。

「お客さん、室生寺は初めてですか」と運転手。
「いえ、2回目です」と私。
「いいお寺でしょ、室生寺は」と運転手。そしてそこから室生寺の話が始まるのですがそれの長いこと、長いこと・・・。室生寺の性格、室生寺の歴史、観光に向いた季節、拝観の観点・・・。
 室生こそ2回目ですが当時の私は無類の仏教マニアで、20代はほとんど毎年奈良に出かけあちこち見て回っていたのでその筋の話にはかなり詳しかったのです。運転手の話のほとんどは既知のことでした。
 しかしせっかく説明してくれているのに「分かっています」も失礼だし、何より他にすることもないので時々相槌を打ちながら、適当に話を合わせていました、旅館に着くまでは。ところが着いてもまだ終わらないのです。
 宿の玄関の20mほど手前で車を停め、サイドブレーキを引いてギヤをニュートラルに戻すと余裕で半身をこちらに向け話を続けます。旅館の前では連絡を受けたご主人と中居さんが、不安そうにこちらを見ています。私は気が気ではなかったのですがその表情を見ても運転手は、「大丈夫です、メーターはもう倒してありますから」とか言って話を止めようとしません。
 ようやく車を下してもらえたのは、到着してから10分も経った頃でした。

 ほうほうのていで入った旅館は鄙びた感じのいい宿で、客は私のほかにはなかったようです。主人も中居さんも親切で料理も程よくおいしく、部屋で一人で食べる食事という寂しささえなければかなりいいものでした。下膳には主人自らが来てくれました。
 丁寧に片づけて膳を中居に渡し、さて退室かと思っていたらいきなり主人は部屋の襖を後ろ手に閉め、私の前にデンと座ります。八畳間のど真ん中で、二人きりで対面です。私は一瞬、身の危険を感じました。
 主人は丁寧に頭を下げ、
「それでは、室生寺室生寺の由来についてご説明申し上げます・・・」
 見るといつの間に持ってきたのか、大部の資料が入った風呂敷包を広げています。それから小一時間、私は紙芝居つきの室生寺縁起をひたすら聞かされました。
“ご説明”が終わった時、ずっと正座だった私の足は完全に感覚を失っていました。

 翌朝は奈良市街に入る計画だったので「もう一度室生寺に参りましょう、私がご案内しましょう」とか言われたらどうしようと思ったのですが、予想は当たらず、すんなりと放してくれました。
 タクシーの運転手が前日とは違うことを確認してややホッとし、出発です。
「お客さん、室生寺は初めてですか?」と運転手。
「いえ、2回目です」と私。いやな予感がしました。
 そして恐れた通り、そこから長い長い“ご説明”が始まったのです。今度は電車の時間もあるというのに・・・。

 室生の人たちは本当にいい人ばかりなのです。室生が好きで仕方ないのです。しかし当時の私はまだまだシャイで、初めての人とうまく会話を進めることのできない “ガキ”だったのでそんなふうにたびたび話しかけられるのは面倒以外の何物でもなかったのです。私は“客”なのだから頼みもしないものを出さないでくれ、そんな思いもありました。
 しかしそんな経験が今は懐かしい――。

 それ以後あちこちの旅館やホテルに泊まる経験をしましたが、“ホテル”はどこに行って泊まっても同じような経験しかできません。“同じ”であって“間違いのない”ところがホテルの価値です。
“旅館”もホテル文化に染まってあまりに個性的な対応をしなくなったように思います。自室で取る食事というものもなくなり、中居さんがわざわざ挨拶に来るような旅館は“超高級”と相場が決まっています(たぶん)。泊まったことがないので分かりませんけど。

「これがオラっちのやり方よォ、嫌なら他に行ってくんな!」
 みたいな店も旅館もほんとうに少なくなってしまいました。

 それでいいのですが――、それでいいのか疑問になるときもあります。