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「カンニングは叱る必要がなかった」~大阪超進学校におけるカンニング・自殺事件の教訓②

 悪いことを悪いと知りつつやっている子を、叱る必要はない。
 “叱る”は、厳しく強い調子で”教えること”だからだ。
 教える必要のない子に与えられるべきは、
 罪と罰の整合だ。
 という話。(写真:フォトAC)

 大阪市の私立清風高校で起こったカンニング・自殺事件についてお話ししています。

【誰がどれくらい悪いかを確定する】

 こうした裁判で損害賠償の請求額が1億円とか聞くと《いくら超進学校の生徒とはいえ、ただの高校生に1億円の価値があるのか》といった見方をする人が出てきますが、これは亡くなった高校生の命の値段ではなく、その人が生きて67歳まで働いた場合に得られたと思われる収入の総額や利子から、生活費などを除いた残りを推定したもので、亡くなったことによってその1億円が得られなくなった、だから賠償しろ、という理屈になるのです。
なぜ67歳かというとここにも面白い計算があるので調べてみるといいでしょう。

 その1億円という失われた利益を審判のテーブルにドンと乗せて相手の責任を問うわけですが、指導の過程で高校生が自殺することを予見できたかどうかは当然問題になりますし、全部が全部、学校の責任とは言えないということになれば、1億円は切り分けられ、そのうちの一部を賠償することになります。
 裁判はまだ始まってもいませんから、この先も注意してみて行きましょう。

 

カンニングを叱る必要はなかった】

 裁判の成り行きは別に見るとして、その上で、一般的な指導の在り方として、清風高校は間違っていなかったかというと、私はやはり問題があったように思うのです。それは叱責と懲戒を同時に行ったからです。

 昨日、取り上げたPRESIDENT Onlineの記事「カンニングは卑怯者がすることだ」という叱り方はNG」でも、人格ではなく行動を責めよといった話をしていましたが、清風高校の場合、実際にカンニングをした生徒を目の前に置いて、どういう話の流れから「カンニングは卑怯者のすることだ」というフレーズが出て来たのか、私にはどうしても理解できないのです。それは以前から校長先生の言葉として繰り返し語られたものであり、現実問題として高校生にもなって“それが悪いことだと知らなかった”という子はまずいないからです。悪いかとだと分かっているからコソコソやるのがカンニングです。そんなときに、「カンニングは卑怯者のすることだ」と教えてやる場面は、生れようがないと思うのです。
 
 昨日、私は「“叱る”は、厳しく強い調子で教えること」だといいました。
 カンニングが悪いことだと十分に分かっていない子に、怖い顔をして、強い調子で「カンニングはとんでもなく悪いことだ」「カンニングは卑怯な行為だ」と教えてあげること、それが “叱る”なのです。
 ですからそんなことは十分に分かっている清風高校の高校生の場合は、叱る必要などなかったのです。悪いことだと分かり切ってやったカンニング、本人も認めているカンニング、ただ粛々と「全教科0点」「自宅謹慎」「毎日の反省日誌の記入」「写経を80巻分」を伝えて罰すればよかった、それだけのことです。
 
 心の教育なんて、何もない、穏やかな、日々の授業や道徳の時間にやればいいことで、事件の真っ最中にやるべきことは、罪と罰の対応を明らかにすること、つまり罰を言い渡してやり方の説明をすることだけでした。

【罪を憎んで、人を憎まず】

 やったことには責任を取らせる、しかしそれはキミが憎いからでも、キミが悪人だからでもない。キミのやった行いを憎むからだ。
 こういう態度を「罪を憎んで、人を憎まず」と言います。そのためにも罰の宣告と執行は、事務的に、穏やかに行われなくてはなりません。人間教育は別の時に、その子に対しても、学級全体に対しても繰り返しやって行くべき話です。
(この稿、終了)