カイト・カフェ

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「マスカレード・ホテル、そして日本の心地よい仏頂面」~九州旅行に行ってきた⑤(最終)

 洋風ホテル・チェーンの良いところは、
 世界中のどこへ行っても同質のサービスが受けられることだ。
 しかし日本のホテル・旅館、その他の宿泊施設は違う。
 いったい何が違っているのか――。
 6日間の旅を終わって、それが分かったような気がした。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200320072118j:plain(杖立温泉もみじ橋のミーナとハーヴ)

【マスカレード・ホテルの流儀】

 東野圭吾原作の映画「マスカレード・ホテル」で、ホテルマンに扮して潜入捜査に入った刑事・新田(木村拓哉)は、チェックアウトの順番を待てない客に憤慨して逆にフロント係の山岸(長澤まさみ)に注意されてしまいます。
 新田が、
「間違ってるのはあっちでしょ。順番が来るまで並ぶ、小学生でも守れるルールだ」
と言うと山岸は、
「ここではお客様がルールを決めるものです。だからお客様がルール違反をするなどありえないし、私たちはそのルールに従わなければなりません」
 新田がさらに重ねて、
「客の我がままを全部聞いていたら、収集つかなくなる」
 そう言うと山岸は、
「そこを何とかするのが私たちの仕事なんです。ホテルマンの仕事、甘く見ないでください」
 すべてのホテルマンがそうした理念を共有しているとは思いませんが、ここに西洋式ホテルの、ひとつの考え方が込められているように思いました。

f:id:kite-cafe:20200320072222j:plain映画「マスカレード・ホテル」

 サービスというのはサーバント(召使い)と語源をひとつにしていると言います。したがってホテルマンは可能な限り宿泊客の意思に沿うようにしなくてはなりません。しかし客の要望をすべてかなえようとすると新田の言う通り「収集がつかなくなる」。そこで枠組みをつくる。
 映画の中でも山岸は、難癖をつけてグレードの高い部屋に変えさせようとする宿泊客の要求は通しても、2万円近いバスローブを持ち出そうとする客に対しては毅然と立ち向かおうとします。ホテルの損害になることは受け入れないのです。

 ただし枠内であっても客が100人いれば100通りの要望があるわけで、その多様性にすべて応えて行くわけにはいきません。そこでサービスの規格化が行われます。
「当ホテルは、これと、これと、こういうサービスを提供します。それらについては従業員が誰であっても同じように対応します。また系列ホテルの場合、どの地域、どの国に行っても同様のサービスが提供されることを保証します」

 ですから私たちは、リッツ・カールトンならリッツ・カールトンヒルトンなら世界中のどこのヒルトンホテルに行っても同じレベルのサービスが受けられると信じて、実際に裏切られることはないのです。さらに言えば、リッツ・カールトンヒルトンの間でも決定的な違いがあるわけではありません(たぶん)。ホテルマンの仕事自体が規格化されているので、どうしてもそうなるのです。
 リッツやヒルトンに遠く及ばないにしても、洋風ホテルである限りどんな小さなところでも、一流のホテルマンと同じであろうという意志はどこのホテルに泊まっても感じられます。


【日本の宿は違う】

 翻っておもてなしの国、わが日本の宿泊施設はどうかと言うと、今回の九州旅行の五つの宿はどれも満足でしたが、洋風ホテルのサービスとは根本的に何かが違っているような気がしました。
 宿泊客に対する配慮が規格化していないというか、偏りがあるというか、要するに“誰もが80点以上をつけてくれる”ふうにはできていないのです。

 典型的なのが杖立温泉「葉隠館」。
 宿泊客によっては100点満点の10点もつけてくれないような瑕疵が山ほどあります。
 古い、暗い、階段が急すぎて荷物を上げられない。壁が薄くて外部の音が入ってくる。部屋に施錠ができない(できるが難しい)、そもそも駐車場が河川敷なので簡単に車に行き来ができない。極めつけは男女共用のトイレ、しかも和式ばかりです。

 安いのはいいが、だったら少しは値上げして改築費に回せば? ・・・そう思う人は必ずいるはずです。
 しかしたった10室しかない小さな旅館が、大きな旅館の真似をして近代化してどれほどの意味があるのか。「葉隠館」が普通の旅館になったら、私は行かないし、昭和レトロに酔い痴れるシーナやアキュラはなおのこと行きません。
 「葉隠館」は今のままで価値があるのであって、それが嫌な人は行かなければいいのです。

f:id:kite-cafe:20200320072309j:plain(「葉隠館」の常識的な朝食:大広間にて)

 ネットの口コミ欄には不愛想な従業員の話が繰り返し出てきますが、統合失調の既往症のある方でコミュニケーションがうまく取れないのだそうです。そんな人でも雇い続けているのは、ひとつには人手不足で、しかし客室への配膳をやめたくないからでしょう。社会福祉的な意味もあるのかもしれません。そんな事情を知れば、不愛想もまったく気になりません。むしろ応援したいくらいです。



【日本の宿泊施設の、心地よい仏頂面とサービス】

 不愛想と言えば初日に泊まった「グランドベース博多」も別の意味で不愛想です。なにしろ愛想を振りまいてくれる人間自体がいないのですから。
 電話連絡でタオルやアメニティグッズをもってきたお兄ちゃんと、二言三言かわしたらそれで終わり、以後一切関係者と会うことはありません。
 スーパーホテルは24時を過ぎると従業員がいなくなるので、ナンバーロックの暗唱番号を忘れたらコールセンター扱いです。コールセンター扱いだということを知らなかったら廊下で寝ることになるのでしょうか?(たぶんフロントあたりに書いてあると思いますが)。
 別府鉄輪のゲストハウスも、最後の福岡のホステルも、そう思ってみるとどこかに不愛想な部分をもっています。
 それが日本のおもてなしの基本形なのかもしれません。

 単なるイメージですが、東京の築地あたりの寿司屋が、
「えー!? いい年してサビ抜きにしてくれだって? そんなもンはウチにゃあ置いてねえよ。いやならとっとと帰(けえ)ってくんな」
というアレです。
 客と主人は五分五分の関係にあって、どちらも相手を選べます。

 宿主や亭主・店主は自分の良いと思うものを提示する、それが嫌な人は来なくていい。
 
 もちろん規格化された安定的なサービスが好きだという人もいます。
 私だって、
「びっくりしたな、もう。○○店のビッグ・マック、メチャクチャ高かったぞ!」
とか、
「スタバだったら○○店より△△店の方が美味い。でも一番美味いのは××店だ」
では困ります。

 しかしそれとは別に「こだわりの一店」といったものもなくてはなりません。店の雰囲気が好きだとか音楽がいいとか、あるいはその店ならではブレンド・コーヒーが美味しいとかいった、「私にとってステキな店」です。
 規格化されたものと差別化を進めているもの、その両方がほどよく散りばめられているのが今の日本です。したがって洋風ホテルも和風旅館も、その他さまざまな様式の宿泊施設も同時に存在して、なくなることはありません。

 空前にしておそらく絶後の5泊6日(実質的には5泊4日)の家族旅行を通して、私が感じたのはそういうことです。

f:id:kite-cafe:20200320072409j:plain(杖立温泉の裏通り)

(この稿、終了)