「体罰の問題」①〜証拠主義のコスト

 

 いわゆる「舞鶴女子高校生殺人事件(2008年)」について、無罪が確定したばかりの男が大阪で38歳の女性を11か所も刺して逮捕されました(11月5日)。幸い被害者は一命をとりとめたようですが。

 このニュースを聞いたとき、即座に思い出したのは1996年の小野悦男事件です。この男も殺人事件で無罪判決を受けた後、大きな事件を起こしたのです。

 

 1974年、小野悦男は19歳の女性の殺害容疑で逮捕されました。当時首都圏では女性が乱暴され殺されるという事件が相次いでいて、殺害方法も焼殺や穴埋めという残虐なものでした。手口から同一犯の犯行も予想され、小野は最大10件(被害者12人)について疑いがもたれマスコミも大きく取り上げました。しかし検察が立件できたのは1件だけ、しかもその1件について高等裁判所が無罪の判決を出したのです。

 彼には大きな支援組織がついており、マスコミも“お詫び”も掲載して大きく取り上げたので、小野はまたたくまに時代のヒーローとなります。しかしわずか一年後には窃盗容疑で逮捕、服役。さらに出所 後まもない1996年、5歳の幼女の首を締めた殺人未遂で逮捕されます。その捜査の中で、別の女性の殺人・死体損壊(遺体の切断と焼却)が明らかになり、遺体の一部は彼の住宅の裏庭と冷蔵庫の中から発見されたのです。実に残忍です。小野はその後、無期懲役になっています。

 

 両事件とも新たな犯罪のために以前の判決が覆るわけではありません。したがって彼らは“無罪”のままですが、先行した事件について “無実”であることは疑わしい、それも相当に疑わしいのです。

 ここでは当然、「先の事件で有罪にしておけば新たな被害者は生まれなかったのではないか」が問題になります。「なぜ無罪にしたのか」と裁判所が非難されるのもやむを得ないところでしょう。しかしどひっくり返してもこの裁判は無罪なのです。同じ裁判を何度やっても、無罪判決しか出ません。日本の裁判所が証拠主義を取る限り、有力な物的証拠がないと有罪にはできないのです。

 

 言うまでもなくそれは冤罪を避けるための手立てですが、そうなると今回の事件や小野の事件のように無罪になった元被告(実は真犯人?)が再び同様の犯罪を起こす可能性が残ります。

 冤罪を出さないための方策が新たな犯罪を生み出すことになるかもしれない、そして実際に被害者が出てしまった――。しかしこれは社会的コストであって、被害者やそのご家族の気持ちを考えると言葉にしにくいことですが、社会全体として耐えていくしかないことなのです。

 

 今回のことを考えると不条理窮まりないような気もしますが、私は強くこの制度を支持します。そして支持する以上、私や私の家族が“野放しにされた犯罪者”によって被害者となる可能性も甘受しなければなりません。

 それが耐えられるのは、こうした犯罪の被害者になる可能性は、私や家族が(痴漢や窃盗も含めると)冤罪の当事者になる可能性よりもおそらく低いからです。何かを得るためには何かを犠牲にしなければなりません。

 

 さて、実は今日は、体罰についてまとめるつもりでした。しかし前置きを描いているうちに紙面が終わってしまいました。

                                 (この稿、続く)