数字というのは常にウソをつきます。それをさらに政府やマスコミが恣意的に曲げますのでよほど注意していないと判断を誤ります。
例えば今年の1月に発表された警察庁の統計で、日本の犯罪発生率が戦後最低を記録し、窃盗・殺人・強盗強姦などの重犯罪も大幅に減った(「刑法犯109万件戦後最少=ピークの4割以下−殺人・窃盗も最低記録、警察庁まとめ」時事通信2016.01.14他)というニュースなどはすぐに忘れ去られてしまいます。「治安が悪くなった」「日本の警察は無能」といった“一般常識”に反するからです。
「日本は平和です」「警察もよく頑張っています」などというのはニュースとしてまったく価値がありません。視聴者の不安や不満を掻き立てるものでないとニュースバリューもないのです。
その点、最近までよく使われてきた下のようなグラフは都合のよいものでした。
見ればわかる通り犯罪の認知件数(発生件数)はほぼ一貫して上昇し、今や22万件を超えています。それに対して検挙率のほうは昭和62年をピークに急下降し、いったんはもちなおしたものの平成9年ごろからまた大きく下がってしまいました。
平成15年で19.4%ですから犯罪の5件に4件は検挙されない犯罪天国――こういうものを見せられると国民は安心して『不安になったり怯えたり』できるようになります(私たちはしばしば予想通りになることの方が“平和”よりもいいと感じることがあります)。
しかし間違ってはいけません。
「日本全体で」「世界で」といった母数の大きな統計で、グラフに大きな変化がおこるのはたいてい基準の変更によるものなのです。
上のグラフで言うと昭和63年から検挙率が急激に落ちているのは突然警察が無能になったり怠け始めたからではありません。その年、警察庁長官に就任したばかりの金澤昭雄という人が「数字の検挙率にこだわらず、 実質を重視して重大犯罪に集中するように」と方針を転換したからです。
社会の複雑化や人口増によって犯罪そのものが増えていく、それに合わせて警察官の数も増やせばいいのですが予算上そういうわけにはいかない。そうした状況にあって「検挙率を下げるな、上げろ、上げろ」というと現場はどうしても数を稼ぐことになります。
犯罪としてもっとも多いのは窃盗、しかも自転車盗・車上狙い・万引きといった軽微なものばかりです。検挙率を上げるとなると殺人事件も一件、中学生の万引きも一件ですから難しい事件1件を挙げるより、万引き犯を10人とらえる方がよほど稼げるのです。
まさか警察が殺人事件を後回しにして万引き犯ばかりを追うということもないと思いますが、窃盗にかなりの力を注がないと検挙率は伸びませんからどうしても重犯罪は手薄になってしまう。
「数字の検挙率にこだわらず、 実質を重視して重大犯罪に集中するように」というのはそうした状況に対して発せられたものであり、別の言い方をすれば「軽微な犯罪については真剣に捜査しなくてもいいから重犯罪の検挙率だけは絶対に維持してくれよ」という意味なのです。
その成果もあって、右図でみるように窃盗犯の検挙件数は下がっても「窃盗をの除く一般刑法犯」の検挙数は下がってはいません。まずはメデタシメデタシというところなのです。
しかしこれには副作用がありました。
例えば何らかの問題を抱えた市民が警察を訪れて告訴・告発をしようとしても、内容によっては(自転車盗など)その後真剣に捜査する可能性もないわけですから、やんわり門前払いしてしまう、そういうことが多くなったのです。それはそうでしょう。受け付けておいて何もしないのは不誠実です。やる可能性がないなら受け付けない、それこそ誠実というものです。
しかしそれでは不満な人もいるわけで、自分の被害が門前払いされたことに憤る人たちは、有形無形の圧力をかけ始めます。そして平成8年から11年ごろ、警察庁内で「告訴・告発は全件受理する」という大きな方針転換が行われます。訴えはすべて事件になるわけで、事件数(=認知件数)は飛躍的に増えてしまいます。
最初のグラフで青の認知件数が平成8年ごろから急激に増加しているのはそのためです。犯罪が増えたのではなく、警察の受け入れる数が増えたのです。
検挙率の分母は認知件数ですから分母が飛躍的に増えれば同じように分子(=検挙数)が飛躍的に増えない限り、検挙率は下がります。
先のグラフが示すのは日本の安全の危機ではありません。これだけ複雑化・グローバル化をしても日本の警察は最小の予算で最大の成果を上げる、極めてコストパフォーマンスの高い組織だということです。
統計はウソをつく。
覚えておくべきは、
「突然、数値が大きく変化したら、そうれは実質が変わったのではなく、基準が変わったのである」
「標本のひとつ乃至はふたつだけが異常な数値を示したら、それは数値自体が過ちかマヤカシである」
といった原則です。
(この稿、週末まで続く)