「体罰の問題」②〜悪いものの魅力

 

 これほど強く非難され社会的制裁も厳しいのに、なぜ学校から体罰がなくならないのか――。この問題は一筋縄ではいきません。

「暴力に寛容な社会性」や「教師の自覚の欠如」に答えを求める向きもありましたが、そう言われてずいぶん年月が経ちました。その間、研修は果てしなく繰り返され、厳罰化も進んでいます。校内はすでに暴力に対して寛容ではなく、暴力が正しいと思っている教員もいません。しかしそれでも体罰はゼロにならない。不思議なことです。

 

 不思議と言えば、校内で起ることで“体罰”くらい因果のバランスの悪いものはそうはありません。多くの場合、体罰を誘発する原因はさほど大きなものではないのです。しかし体罰に対する処分はどんどん重くなり、普通は懲戒免職、稀に停職または減給です。懲戒免職となれば退職金はゼロになり年金も減額、教員免許も取り上げられます。停職や減給なら大したことはないと思うかもしれませんが処分を受けた事実は一生付きまとい、昇給や退職金にも影響します。一説には35歳で減給処分を受けると生涯賃金で350万円違うと聞きました。

 

 他人のお子さまの些細な罪に対し、体罰を行って自分の生活を根本から崩してしまう。そんなバカなことがあっていいはずはありません。しかし実際には存在する――そう考えると体罰の本質がはっきりと見えてきます。

 教員による“体罰”は十分に考えた上での行動でないのです。「カッとなると自分を見失い抑制の利かなくなる人いる」「やってはいけないという判断力が決定的に落ちてしまった人がいる」そう考えないと説明がつきません。いわば大人の発達障害心神耗弱の問題なのです。そうなると体罰撲滅への道は研修や厳罰化ではなく、治療やトレーニングなのだということが明らかになってきます。

 体罰発達障害、その観点から体罰を考察しようとする動きのないことを、私はとても不思議に思っています。

 

――と、ここまでは、実は以前からずっと話してきたことです。そしてずいぶん長いこと、それで体罰がなくならないことについてはすべて説明がつくと信じてきたのです。大阪市立桜宮高等学校体罰事件が起こるまでは――。

 

 桜宮高校事件が起こって初めて、今でもなお、体罰の教育的効果を信じて行っている教員がいる、しかも全国規模ではかなりいる、ということに気づきました。驚きました。

 彼らは暴力の教育的効果に絶大な信頼を置くとともに、子どもが大きな成長を遂げているかぎり本人も保護者も絶対に訴えない、信じ切っています。だからためらうことなく暴力を振るうことができました。自分のやり方について来れば全国レベルの実力を持てるはずの生徒がまさか自殺するなど、夢にも思っていなかったのです。

 

 体罰には良いところがある、優れた教育的効果がある――これからお話ししようと思うのはそういうことです。しかしだからといって私が体罰肯定派ないしは容認派であるわけではありません。

 体罰は撲滅すべき目標です。少なくとも肯定したところで昔に今が戻るわけはなく、やればほぼ確実に懲戒免職になる体罰を現職の先生方に勧めることもできません。ただ体罰を考える上で、「よくない」「何の利もない」というところから始めると、本質的なものを見失ってしまいます。

 煙草はよくない、麻薬や覚せい剤はよくない、そんなことは誰でも知っているのになくならない、それと同じです。簡単に言えば、特定の場面で、煙草も麻薬も覚せい剤も「かなりいいもの」「そうとうにいいもの」だからです。

 私は煙草しか知りませんが、長い禁煙のあとの一服、強い緊張のあとの一服には、他に代えがたい至上の喜びがありました。「将来ガンや心臓病になりやすいからやめましょう」では済まない魅力があったのです。それを前提としないで「なぜ体に悪いと分かり切っていながら煙草はやめられないのか」と首を傾げていても始まらないのです。

   

                          (この稿、続く)