カイト・カフェ

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「人はどこまで残虐になれるのか」〜座間9遺体遺棄事件より①

 昨日も読書について書く中で、ちらっと申し上げたのですが、私は本を通して行う間接体験を重視しています。私たちは経験から多くを学びますが、個人ひとりひとりの直接体験では圧倒的に不足するからです。また事故に遭う、違法薬物を試す、犯罪を行う等、体験できないこと、体験してはならないことも山ほどあります。
 そうした直接及び間接体験を通して、私たちは知識や見識を豊かにし、未来を予測したり理解できないものごとを理解しようと努めます。それが私たちの生活をより豊かなものにし、安全なものにすると知っているからです。

 ただしどれほど体験を積んでも、どんなに努力して想いを詰めても、決して理解することのできないこともあります。私の場合、それは児童虐待と人間の解体です。

f:id:kite-cafe:20201212201354j:plain 後者について言えば、松本清張の小説などを読んで “どうしても殺さないわけにはいかない”と思い詰める人間の心情を理解することはできます。殺すつもりはなかったのにカッとなってあと先考えず殺してしまったというような人間も分かります。脅すつもりがつい手元が狂ってといった事故みたいな殺人もあるでしょう。
 それらはすべて理解できるのです。しかし遺体の解体といった話になると別です。

 もちろんそこに至る事情――殺してしまった後で遺体の始末に困って――ということは理解できます。
 映画で言えば平山秀幸監督の「アウト」がそれですが、登場人物たちが追い詰められていく様子は理解できる、突発的に殺してしまって思案に暮れる、それも分かる。バラバラにして運ぶという考えが頭に浮かぶ、それも理解できる――。しかしスクリーンの風呂場で、主人公が斧だか包丁だかを振り上げる場面までくると、私の神経は題名の通り「アウト」になってしまうのです。嫌悪感で胃がせり上がってきます。私には絶対にできない――。
 それが園子温監督の「恋の罪」だとか「冷たい熱帯魚」になるとまったく手も足も出ません。映画館の座席の中に深く沈みこんで、次々と目の前に突き出される遺体の一部や解体の様子に、神経を押しつぶしそうになりながら耐えているだけです。

【座間事件のこと】

 現在のところ座間の事件の最大の謎は動機です。

 容疑者は不思議な饒舌と奇妙な誠実さによって自分に不利な内容も平気でしゃべっているので、さまざまな情報が出てきます。

 被害者たちは誰も本気で死ぬつもりはなかった、自分も自殺などするする気はさらさらなかった、ただ被害者と接触するために自殺念慮を語った。
 金を奪うのが目的だった、楽をして生きたかった、すべての女性被害者を犯した、部屋に招き入れるとすぐに殺した、殺すことに慣れて一人ひとりが思い出せない――。
 しかしそれだけ語っていながら、真の動機らしい話は一切しません。

 金が目的だったと言っても連れだした被害者はすべて若い女性で、とても大金など持っていそうにありません。暴行目的を匂わせてもそもそも白石は女性に不自由しない男です。わざわざ強姦などする必要もありません。
 運転免許は持っているがペーパードライバーなので遺体の搬出ができなかった――それは9人も殺す理由にはなりません。

【平凡な推理】

 私はこんなふうに考えていました。

 予め50万円を振り込ませて殺した最初の殺人は金のため、その女性の消息を訪ねて訪れたボーイフレンドを殺したのは第一の殺人の隠匿のため、そして3例目以降は第一第二の殺人および遺体処理から何かを発見した白石隆浩の快楽殺人であると。
 そう考えないと27歳の今日まで、大きな犯罪の加害者とならず生きてきた彼の前半生が理解できないのです。曲がりなりにも社会に適応し、なんとか都会の片隅で生きてきたその生活と、猟奇殺人の日々がつながらないのです。

 ところが今週になって、「最初の殺人をする前にネットで遺体処理の方法を調べノコギリを買った」という話が出てきてそれで分からなくなりました。
 もちろん流れてくる情報すべてが事実というわけではありませんし後に撤回されることもありますから今からあたふたする必要もないのですが、それが事実だとすると、殺す前から解体するつもりだった、最初からその計画でアパートも借りたということになります。
 一体そんなことがありうるのでしょうか。

【ごくありきたりの男が】

 池袋や歌舞伎町でスカウトをしていたというやや特殊な経歴、前科一犯(とはいえ職業安定法違反という後の重大犯罪を考えるとあまりにも小さな犯罪)、それらを除くと「父親を気遣い、すれ違えば気さくにあいさつする、ごく普通の青年」「優しく穏やかで争いは好まない」「温厚で優しい (優しすぎて怖いほど)」「ずっとニコニコしていた」など、周辺の人々や同棲相手から評される、ごくありふれた、優しい、物静かな青年――それがある日、殺人と遺体の解体を思い立ち、周到に用意して実際に行ってしまう。

 それが事実だとしたら私たちは安心して暮らすことはできません。見知らぬ人はもちろん、隣人や友人、それどころか家族ですら信用できないということになります。
 親は、大切に育てている自分の子が、ある日突然、悪魔としての本性を現すことに常に怯えていなければならない。

 教師は、おのれの仕事の虚しさに立ちすくまなくてはならない。毎日、道徳教育に心血を注ぎこんだところで、それは悪魔に血肉を与えているのと同じなのかもしれないからです。
――しかしそんなことって、ほんとうにあるのでしょうか?

(この稿、続く)