「愚かな不審者対応」③〜“いいこと”もやめてしまう

「学校に求められることで“悪いこと”はひとつもありません。“いいこと”だらけです。そして“いいこと”はやめられないのです」
 昨日はそう書きました。「生活科」も「総合的な学習の時間」も「外国語活動」もみんな“いいこと”です。キャリア教育も日本語を使わない英語教育もみな“いいこと”で必要なことです。

 ほかにも学校へ持ち込まれる“いいこと”はたくさんあります。
 地域の伝統行事の継承、橋が架かった護岸工事が終わったといった施設の開設行事、吹奏楽部の地域フェスティバル・地域コンサートでの演奏、エコ・フェスティバル等の市町村啓蒙活動への参加、国交省建設省への協力・・・。特に田舎では学校の実質的な共催を前提にしないと成り立たない行事が目白押しです。どれもこれも悪いことではありません。

 教員に求められるものもすべて“いいこと”、正しいことです。もっと学力を(ごもっとも)、一人ひとりに心を寄せて(たしかに)、アカウンタビリティコンプライアンス、ITリテラシー・授業力の向上、部活動における医療知識の蓄積、不登校対応、いじめ対応・・・。 
 しかしそれらをすべて受け入れて同じように対応していたのでは、学校はパンクしてしまいます。さりとて国や都道府県の指示は拒否できず、地域の申し入れを忙しさ理由にかたっぱし断っていては角が立ちます。そもそも何を採って何を捨てるかの判断も難しい――。
 こんな時のどう考えたらいいのか――。

 そのヒントを与えてくれたのは内田樹です。彼はこんなふうに言ったのです。
「その正義を全員が守ったら、果たして人々は幸せになるのか」

 昨日挙げた例で言えば、この論理で集団登校はやめることができます。なぜなら困難になった集団登校で幸せな児童生徒はいないからです。不審者対策なら、別の方法(見守り隊の強化や児童生徒の対応訓練など)で代用できます。

 教科・道徳や追加教育(キャリア教育や環境教育、食育など)は断ち切ることができないので、軽重をかけることでしのぎます。

 部活動における医療知識の蓄積などは顧問と副顧問とで分担するしかないでしょう。ひとりの教員が学級経営をして教科指導をし、総合的な学習の時間や道徳の授業を展開しながら部活の指導をし、同時に医療知識に精通するなど基本的には無理なのですから。

 要は、「全員が」「同じように努力」しないことです。

 実はこうした軽重の工夫と分担は学校が数十年に渡って自然に行ってきたことです。そうせざるを得なかったのです。
 いじめ自殺事件が起きて全国的に取り組みが強化され、その指導に躍起になっていたら「不登校対策はどうなっている」と追及され、不登校を減らそうと頑張っていたら誘拐事件が起こって「登下校の安全対策はどうなっているのだ」と怒鳴られる。避難訓練や対応訓練に腐心してようやくこれで叱られずに済むと思ったら「ところで学力は?」といきなり問われる。得点を1点でも伸ばそうと必死になっているところへ、「道徳教育が疎かになっているだろう」と不意打ちが食らわされる、それがずっと続いてきたのです。

 全体としてひたすら振り回されてきたような感じですがそれは無自覚だったからで、最初からこうなることを予定して、全員が同じように努力しないよう、常に配慮していけばいいだけのことです。
 何よりも大切なのは児童生徒が伸びることであって、すべてを同じように与えれば栄養過剰のペットのように早死にしかねません。

(この稿、終了)