カイト・カフェ

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「道徳教育、あれだけやってもこの程度か」~言わなければ誰も評価しない④追補

 学校は朝から晩まで道徳教育をやっている場だというと、
 それであの程度かといった話になる。
 しかし人間を道徳的にするには時間がかかるのだ。
 大谷家のような、学校に対する信頼と自覚があればこそなのかもしれないが――。

という話。

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(写真:フォトAC)

 

 

【日本の道徳教育、あれだけやってもこの程度か】

 昨日は「学校は朝から晩まで道徳教育をやっているようなところ」というお話をしました。しかしそう言うと、

「それだけやってもあの程度か、学校はいじめひとつなくせないではないか」
とおっしゃる方もおられるでしょう。
 前半については同意します。あれだけやってもこの程度なのです。

 そもそも道徳性を身につけるのは大変なことなのです。
 あの孔子ですら「70歳になってようやく、心の赴くままに行っても人の道を踏み外すことはなくなった(七十にして心の欲するところに従えども、矩をこえず)」といい、お釈迦様ですら孫悟空を抑えるのに体罰(キンコジと呼ばれる頭にはめたタガを締め付ける)を使わざるを得なかったのです。

 それを現代の教師は、児童生徒が70歳になるのを待たず、キンコジといった強制力も使わず、言葉ひとつで果たそうというのですから大変です。最近ではその「ことば」も、使い方次第で凶器にもなると規制がかけられようとしています。
 同じ年齢の子に同じようにかけ算九九を教えても、覚えて使えるようになるまでの時間に大きな差があるように、同じように教え、訓練しても、道徳的な言動ができるようになるには個人差があるのです。
 大谷翔平選手は、この点でも才能のある若者だったのかもれません。

 しかし先ほどの苦言の後半部分、「いじめひとるなくせない」には異論があります。
 この論理、「いじめさえ解決できないのだから学校の道徳教育はうまく行っていないに決まっている」は、「特別の教科道徳」創設の時も持ち出されたものですが、聞き捨てならない話です。
 いじめ問題は生徒指導・道徳教育の一丁目一番地、基本中の基本ではなく、最後に残された大問題だからです。

 

 

 【学校は常に対処してきた】

 学校は第二次世界大戦後だけを考えても大変な努力を傾け、生徒指導や道徳教育に当たってきました。
 1950年代は今と違った意味での「不登校」が大問題な時代でした。悪事に忙しくて学校に来る余裕のない子を、学校に戻すのが大仕事だったのです。しかもようやく戻した学校には子どもがナイフを持って向かい合う現実がありました。当時の子どもの筆入れには「肥後守(ひごのかみ)」を始めとする簡便なナイフがいつも入っていて、喧嘩になるとすぐに持ち出されたのです。
「いまの子どもたちはまったく不器用だ。私が子どものころは毎日ナイフで鉛筆を削っていたから、今と比べるととても器用だった」
などと言うご老人がおられますが、学校がどれほど苦労をしてナイフをなくしたのか、知らないからそんなことが言えるのです。

 1960年代後半から80年にかけては、荒れる学校の時代です。私は東京の中学校で教育実習を受けましたが、各階の男子トイレに入れる個室がひとつくらいしかないことに呆れました。みんな壊されてしまうからです(自分たちが使うのに困るのでひとつは残した)。学校の壁には真っ黒なスプレーで書く先生の悪口が絶えません。普通の子が普通の授業を受けられない時代だったのです。それも乗り越えました。

 いじめはその間もずっと存在した問題です。しかし教師はこれに対しても良く対処しました。表立ったところで行われる非道については徹底的に話し合わせ、潰しました。子どもだけでは気づけない人権問題にもメスを入れてきました。その結果、いじめは公然の場から消え、裏通りに回ったのです。いまや表立っては分からない、校外で行われる、ネットを介したものが中心です。とてもではありませんが授業だの行事だのといった日常の教育活動をしながら、解決できるような問題ではありません。

 

 

 【しかしまだ、やっていけるかもしれない】

 ただ、今回大谷選手のことをあれこれ調べながら、日本中の保護者が大谷家のようであったらもう少し頑張れるかもしれないと思ったことがありました。それは今週の始めに紹介した「Newsポストセブン」の記事にあった一節です。
大谷家では、両親が「もっと食べろ」「好き嫌いをするな」とうるさく言うことはなかったという。
「(母親の)加代子さんは『給食で栄養士さんがバランスを考えてくれているので、大丈夫』と大らかに構えていたそうです。


 ほとんどいい加減と言っていいほどのこのおおらかさは、何なのでしょう?
 学校教育への信頼というのも大谷家の大きな美質です。「オレの思ったようにオマエがやれ」といった人がたくさんいる社会で、「この点では学校を信頼してお任せします」「ウチはウチで神経質にならずに子育てに専念します」――そんなふうに言ってもらえたら教師もさぞかしやり易いでしょう。
 周囲の無理難題に応えようとしないで済めば、指導にもブレがなくなり、今よりずっとうまくやっていけるはずです。

 日本の道徳教育全体については、大谷選手の言動を通してアメリカ人を感心させ、東日本大震災の被災者の様子を通して世界を震撼させる程度のことでがまんしてもらうしかありません。

(この稿、終了)