「最初にやってみせる」

 昭和20年、広島に原子爆弾を落とすことに決めたとき、アメリカ国内にも多くの反対者がいました。一部は一種のヒューマニズムから、もう一部は純粋に軍事的な見地からの反対でした。太平洋戦争は放っておいても日本の負けです。そんな日本に対して原爆を使い、すでにアメリカが開発に成功したことを世界に知らせるべきではないと考える人たちがいたのです。

 その人たちは戦後に訪れるべき米ソ対立を見越していました。アメリカが原爆を持っていると知らせることは、ソ連の原爆開発に拍車をかけることになります。それを恐れたのです。

 当時、まだ世界では原爆は仮説でした。しかし実際に存在するとなると話は違ってきます。それは突然、実現可能なものとして、つまり追求するに値する兵器として目の前に現れるのです。実際その後わずか4年で、ソ連原子爆弾を持つに至ります。誰かがやってみせるということが重要なのです。

 同じことはスポーツの世界では日常茶飯です。

 例えば陸上競技100m走は、10秒の壁を切ることが長い間の夢でした。ところがひとりそれを実現すると、堰を切ったかのように次々と9秒台が出され、今や世界記録は9秒58です。あれほど難しかった9秒台が平凡な数字となってしまいました。

 体操競技でもフィギアスケートでも、新しい技が開発されるとほとんど同時にアスリートが殺到し、“誰もできなかった技”が“できなければならない技”へと更新されていきます。最初に見せることが困難であって、あとに続く者はそこまでの大変さはありません。

 さて、政府や文科省は日本の教育の衰退に対し、次々と教育改革の施策を打ってきます。「教育の衰退」というのはこの場合、学力が世界トップの座を失ってしまったこと、いじめなど道徳退廃が顕著になってきたことなどを言います。

 前者については全国学力学習状況調査(全国学テ)やその公表、教員評価や学校評価による教育力の向上、小学校英語導入による英語力の向上などが挙げられ、後者については道徳の教科化が挙げられます。しかしその効果は何によって担保されるのでしょう。

 全国学テはイギリスのナショナル・テストを、教員評価はアメリカの企業マネジメントをお手本としたものです。しかし忘れてはならないのは、イギリスやアメリカはPISAにおいて日本よりずっと格下なのです。自分より成績の低い者の真似をして、好成績を収めようというのです。

 その一方で、PISAの上位国・地域・都市(上海・シンガポール・韓国・香港・台湾)からは何も学ぼうとしません。わずかにフィンランドだけが参照されますが、こうなると本気で民族差別を疑いたくなります(実際のところは民族差別などではなく、“アジアの高学力の原因は分かっているのだが真似したくなるようなものではない”ということなのでしょう)。

 もっとも教科学習以外ではアジアに手本を求めている例も少なくありません。小学校英語は中国や韓国が始めたことで慌てて追従しました(しかし小学校英語のおかげで中韓の子どもたちが英語で日常会話ができるようになったとい話はつとに聞きません)。

 文科省の資料を見ると、道徳の教科化について参照したのはイギリス・フランス・ドイツ・アメリカ・韓国・中国・シンガポールの6か国です。その中で“教科”としてきちんとやっているのはアジアの3カ国だけ、教科化の有効性を示しているのはこの3カ国だというのでしょう(しかし韓国・中国・シンガポールの道徳性は、日本が目指すべきものなのでしょうか)。

 ここまできてふと思うことは、教育に関して、もう日本のお手本になる国はないのかもしれないということです。

 過酷な受験競争や選別教育をせずに高い学力を保持すること、解決しきれない問題は残るものの世界最高水準の道徳性をつくりあげること、その2点において、もしかしたら日本はすでに“やって見せた”国なのかもしれません。

 そうした思いで見れば、教育改革もまた別の姿を見せるようになります。