カイト・カフェ

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「1963年東京オリンピック男子1万mをドベで走った男」~ゼッケン67番の伝説①

 東京が2020年のオリンピック招致に成功しました。まずはメデタシ、メデタシというところです。教員としては「これで改めて子どもたちに夢を・・・」といった話をすればいいのかもしれませんが、今は「崖っぷちを必死に登っている日本経済が、足を踏み外さなくてよかった」といった思いです。もちろんその意は、子どもたちの将来の就職が少しでも望ましいものになるようにということですが。

 さて、私は49年前の東京オリンピックをリアルタイムで見たひとりです。感受性の強い時期のことですから、今もたくさんの記憶が残っています。

 ウェイトリフティングの三宅義信だとか、やたら強かった男子レスリングだとか、本当に魔女みたいに怖い顔のオバさんばかりだった「東洋の魔女(女子バレーボール・チーム)」だとか。体操のエースの遠藤幸雄だとか、ベラ・チャスラフスカとか。ローマ大会の裸足の英雄・走る哲人アベベ・ビキラは東京でも黙々と優勝し、スタジアムまで2位で来た円谷幸吉は悲鳴のような歓声の中でイギリスのヒートリーに抜かれてしまったとか。柔道重量級の神永昭夫はヘーシンクの圧倒的なパワーに押しつぶされてしまったとか・・・。

 しかし私の記憶の中に一番鮮明に残っているのは、陸上男子1万メートルで最後にゴールインしたスリランカ(当時はセイロン)の選手です。名前をラナトゥンゲ・カルナナンダと言います。

 彼については1970年代の光村図書「小学校4年生国語」に『ゼッケン67』という題名で出ていたようですが、この話は現在、次のように記憶されています。
東京オリンピックの男子の1万メートルで何周も遅れながらも最後まで黙々と走り続ける姿に観衆の反応も失笑から暖かい応援に変わり、ゴールすると万雷の拍手で称えたというのです」
 しかし私の記憶は少し違っています。

 陸上男子1万メートルは日本の円谷幸吉が6位に入賞し、俄然、注目を浴びるようになった競技でした。その最後のランナーがゴールに入り、満足した観客が腰を浮かせかけたときです、あろうことかランナーは立ち止まらず、そのままコーナーを回って向こうへ走って行ったのです。
「ああ、一周遅れだったんだ」
 そう思って観衆はまた腰を下ろします(たぶんそうです。私はテレビの前でそうしました)。
 そして1周待って今度は前よりもずっと大きな拍手で迎えたのです。ところが選手は再びコーナーを回って行きます。失笑が起こったのはこの時です。
 選手に対するものではなく、思い切り拍手してしまった自分に対するものです。

 その2周目も終わって選手がコールに近づくと、私たちは疑心暗鬼になりました。もしかしたらこれもゴールではないかもしれないのです。さっきのような恥ずかしいことはしたくありません。拍手をする人もいましたが何かまばらな感じで、そして案の定、彼はまたコーナーを回って行きます。これではもう、あと何周待ったらいいのか分かりません。
 そして3周目。最後のコーナーを回ったところで彼は猛然とラストスパートをかけます。私たちはなんだかうれしくなりました。そして安心して、今度はスタジアム全体で心をこめ、万雷の拍手で彼を迎えたのです。
 それが私の覚えている陸上男子1万メートルの最後の場面です。

 しかしそれから何年かして、私はこのレースをある感慨をもって思い出すことになります。

(この稿、続く)