超監視社会について話しています。
【映画「マイノリティ・リポート」の戦慄】
2002年の映画「マイノリティ・リポート」のなかでとても不気味な場面がありました。それは殺人を疑われた主人公のジョン・アンダーソンがショッピングモールを逃げ回る場面です。
まずその入り口でジョンは機械によって目の虹彩を読まれます。指紋を読まれたと同じです。すると進む先の店舗のショウ・ウインドウから次々とジョン・アンダーソン向けの広告が流れてくるのです。
「ストレスですか、ジョン・アンダーソン」
「ジョン、ギネスを一杯どうぞ」
「旅に出ませんか、ジョン・アンダーソン」
それはすべて彼の嗜好に合うものばかり。さまざまな商品の中からジョン・アンダーソンが選択しそうなものだけを提示してくるのです。ジョン・アンダーソンは完全に捕捉されています。
【ターゲティング(狙い撃ち)広告】
似たことがネット上で起きます。私はネット通販のアマゾンのホーム・ページを開くたびに大変な使いやすさと一種の不気味さを感じます。そのページには私の好みそうな本や必要になりそうな物品がずらっと並んでいるのです。間違ってもゴルフ用品や料理のレシピ本、ゲームの攻略本などが出てくることはありません。繰り返し利用することで、私がアマゾンに嗜好や生活の一部を譲り渡しているからです。
ただし私はアマゾンで食事をしたり野菜を買ったりはしません。またアマゾンは私が年のいった男だとか住所だとかいった登録内容は知っていても、どこをどう動いているのかは知りません。私の情報の一部しか持っていいないのです。
今私がとても気にしているのは財布の中のレシートです。これを全部集めて解析すれば、私が何人家族でどういう生活を送り、何時何分にどこにいたか、みんな分かってしまうからです。もちろん私の情報収集者(そんな人がいるとして)は、その前に私のレシートを盗むという仕事をしなければならないのでそう簡単に情報を入手できません。しかし私がすべての買い物をクレジット・カードで行うとしたら、すべては一か所に集まっていて、それさえハッキングすればいいことになります。
その他、私が書き送ったメールや添付した書類、ネット上の書き込み、あるいは(実際にはしませんが)オンライン・ゲーム上での私の方略・・・そうしたものを全部寄せ集め、巨大なコンピュータで解析すれば私以上に私のことを知る存在が地球上に存在することになります。
【「私」が補足される社会】
私などはもう年寄りですからいいのです。将来、国際舞台で数億ドルの取引をするといった可能性はゼロです。
しかし現在受験勉強もそっちのけでゲームにいそしんでいる子どもたち、その子たちの攻略法は丁寧に解析され、人物を特定されてどこかに蓄積されているのかもしれません。そして数十年後、その情報は高額で売られ、最も重要な取引の場面で悪用されるかもしれないのです。
「コイツは、こういうやり方をすれば必ず折れる。子どものころからずっとそうだったから」
現在のところネットの危険性というと架空請求だのネットいじめだのといった話になりますが、それよりももっと大きな危険が潜んでいるのかもしれないのです。
今は絶版になっていて手に入らないのですが「Erehwon(エレホン)」という反ユートピア小説があるようです(S・バトラー著 1872)。「No where(=ユートピア)」の綴りを逆から書いたものです。中身も知らないのに私は好んでいます。
しかし子どもたちが将来生きる場が、情報を抜き取られ、常に誰かに利用されるエレホンだったら・・・そう考えると、今教えておかなければならない重要なものがたくさんあると、改めて思うのです。