丸谷才一の『文章読本』のこと

 作家の丸谷才一さんが亡くなりました。87歳だったそうです。小説家としても大きな仕事をした(「たった一人の反乱」ほか)人ですが文芸評論に多くの業績があり、芥川賞を初めとして数々の文学賞の選考委員も長く勤めました。

 以前お話ししたことがありますが、私はこの人から文章上の大きな示唆をもらいました。今回の訃報に際して改めて「文章読本」(1977 中央公論社)を引っ張り出してみたのですが、確かにもう一回読む価値のある本であると思います。

 しかしたぶん私は読み直しません。なぜかというと丸谷才一は言葉に対するこだわりが強く、文章をいちいち旧かなづかいで書くので読むのに気合いが必要なのです。35年前の私はよく我慢してこの本を読みました。しかし今の私にはその気力がありません。そこでざっと目を通して、「ああこのことはずっと気にしてきた」と思うことを三つだけ列挙します。

 まず最初は「名文を読め」ということです。丸谷才一は「文章修業はこれに尽きる」とも言っています。なぜなら第一に「言葉づかいを覚える」、第二に「文章の呼吸というべきものを体験的に手に入れることができる」、第三に「作者の気迫と言うべきものを看取できる」からです。特に私は第二の点に注目します。

 文章を書くというのは書き手の体内にあるリズムに従うことです。簡単に言えば志賀直哉の文章に慣れた人間と谷崎潤一郎の文章に慣れた人間とではまったく違った文章ができあがるのです。志賀派は短文で切れ味が良く、スピード感があって清新です。それに対して谷崎派はねちっこく長文で、表現が潤沢で豪華絢爛と言えます。これはどちらがいいかという問題ではなく好き嫌いの問題です。

 あるタイプの文章が好きでそれを繰り返し読む。繰り返し読むことで体内に“文章の息”(丸谷の命名)と言うべき言葉のリズムが定着するのです。基本的に文章はその“息”に乗って書きます。そうなると「何を書くか」だけを考えればいいだけで、「どう書くか」はとりあえず問題とならなくなります。工夫の必要のない部分では、書くことがはっきりしていると自動筆記のように筆が進みます。

 丸谷才一に教わった二番目の観点は「人は見たように書くことはできない。書くように見よ」ということです。

 例えば美しい夕陽を見て感動したとき、のちに文章にする気がなければただ感動に身を任せればいいのですが、何らかの文章表現にしたければその瞬間に自分の感動を文章化するよう、「見て」「感じ」なければならない、ということです。子どもについて言えば、学校の遠足など、帰ってから作文に書かせる予定のある行事では事前に、

「『遠足の○○のこと』という題名で作文を書くから、帰ってきて聞かれたら答えられるようにしておこう」

 それだけで多少違ってくるのかもしれません。

 最後のアドバイスは「ちょっと気取って書け」ということです。

 日本人は控えめな民族ですから、正直に素直に書こうとするとどうしても表現が乏しくなるのです(丸谷才一はそんなこと言っていませんが)。ちょっと気取って書こうとすることにより、表現が強くなったり工夫が生まれたりします。

 以上三点、「名文を読め」「書くように見よ(感じよ、考えよ)」「ちょっと気取って書け」。

 この本を読んで三十数年間、いつも心のどこかに置いていたような気がします。