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「文体」という言葉は「和文」「漢文」「和漢混淆文」などといった固まりに使われることもあれば、「だ・である」調のような常体、「です・ます」調のような敬体など、文章の様式として使われる場合もあります。

 しかし何といっても問題にされるのは、プロの作家たちの「文体」です。これは文章作成上の一種の癖あるいは偏向であって、しかも何らかの価値のあるものです。

 例えば二つの文を見せられて、一方が志賀直哉で他方が谷崎潤一郎だと言われたら(よほど意地悪な抜粋でもしない限り)私でも100%言い当てることができます。それは一文の長さ、読点の位置、比喩の特徴や使用する漢字、用語の頻度などに明確な違いがあるからです。

 またいくつかの文の中から中島敦のものを探し出すのは比較的楽ですが、そばに高橋和巳の文が置かれていたら間違えるかもしれません。二人とも中国文学の素養の上に書いた人なので、文章が似ているのです。

「文体」は文章上の強烈な個性ですから「彼は確固たる文体をもって文壇に登場した」とか「この時期、ようやく自分の文体を確立した」といった使い方をします。どんなアイデアを持っていたとしても、少なくとも純文学の世界では文体を持たない人は成功しません。

 しかしそれはプロだけの話でしょうか。

 日常、大量の文章を書く私たちに「文体」と言っていいような安定した文章上の癖、偏り、個性といったものはないのでしょうか。

 もちろんあります。私たちの文にだって「文体」に近いものはあります。とにかくたくさん書いているうちに、表現の揺らぎは自然に消えて行き、その人らしい文章になっていきます(これに芸術性があれば即、作家です)。学級便りの文章など、たぶん多くの先生が互いを言い当てることができるでしょう。ああ、これ○○先生の文だと、理解できるはずです。

 文章を書くのが楽になる近道は、この「文体に似たもの」を早く手に入れることです。その文体という枠に乗ってしまえば、書くこと自体には苦労せず「書く内容」だけが問題となってきます。そうなったらしめたものです。では、そのためには何をしたらよいのか。

 それはもう、書いて書いて書きまくるしかありません。プロ野球を見ていても野球はうまくなりませんし、音楽を聴いていてもうまく演奏できるようになるわけでもありません。同じように本を読んでも、日常的にたくさんしゃべってもそれで文がうまくなるわけではなく、やはり書かないと文は楽にならないのです。すべてのこと同じように、そこには意図的な修練、目標をもった訓練を入れるしかありません。

 そして子どもたちもそこまで書き込めば、きっと文章を書き、表現することが好きになるはずです。