家庭の教育力はなくなったのか

 なぜか土曜日の午後、カーラジオで「かんさい土曜 ほっとタイム」という番組を聞いていることが多くなっています。特に覚えていてスイッチを入れるわけではありませんが、偶然そんなふうになっています。その番組の目玉コーナー「ぼやき川柳」で5月5日の川柳大賞をとった作品に、こんなのがありました。

「そんな子に、育てた覚え、少しある」

 確かにその通りで、よく考えれば子どもはやはり育てたようにしか育っていません。

 さて、「家庭の教育力がなくなった」と言われるようになって久しくなりますが、私はこの言葉にずっと違和感を持っていました。少なくとも「親の教育力」という意味での「家庭の教育力」が落ちたとはとても思えません。そもそも親には最初から教育力なんてほとんどなかったからです。

 時計を60年以上戻して戦前の状況を考えてみましょう。その時代、日本の家庭の大半は三世代の大家族でした。そんな中にあって、親が子の教育をする余裕などほとんどなかったのです。

 例えば、私の母は家具職人の娘ですが両親(つまり私の祖父母)は仕事に忙しく、家事ですらろくにしませんでした。家事をやっていたのは長姉です。そういうものだと誰しも思っていたのです。

 また農家の嫁などは、要するに体の良い農業労働者であって、朝から晩まで野良に出ていて教育どころではありませんでした。総じて養育や教育をやっていたのは、兄弟であり、隠居と呼ばれるような祖父母、曾祖父母、あるいは近所の誰かだったのです。

 思えば昔の子どもは二重三重に社会を持っていました。

 家庭内がすでに社会でした。外に出れば大量の子どもが群れて遊ぶ地域子ども社会があり、それら全体を地域社会、つまりご近所が包んでいたのです。そうしたところで時間をかけて教育されれば、学校社会に入り込むころにはいっぱしの小社会人になっていました。

 さらに60年以前の子どもには強力な教師がついていました。“貧乏”という容赦のない教師です。それが子どもに忍耐力や這い上がるための精神力を培いました。

 それがおそらく高度成長期の前半くらいまではあったのです。それは歴史ではなく、私の実感です。

 ところが1970年代になると核家族化が進んで、まず“家庭の中の社会”が消えます。少子化によって地域子ども社会が消滅すると“ご近所”の機能も大幅に縮小されます。そして多くの国民が貧しさから抜け出すと、子どもは(地域を含んだ)家庭で教育されることが極端に少なくなりました。

 むろん優秀な親やセンスの良い大人はたくさんいますから、「家庭でよく教育された子」がゼロになったわけではありません。しかしそれでも昔のように小社会人が学校社会に入ってくるわけではありません。むき出しの子どもが入ってくるだけです。それが今日のあり方です。

 私が言いたいのは「親が悪い」という言葉は極力慎みましょう、ということです。昔は悪い親のもとでも、普通以上の子がいくらでも育ったのです。他の人がやってくれたから。

日本の歴史を最初から見ても、夫婦二人だけで子どもを育てる時代は、ここ40年あまりだけです。今の親は辛いのです。

(ついでに、だから昔の方が良かったという言い方も間違っています。昔の方が今よりもずっと少年犯罪も凶悪犯罪も多かったのです。要するに貧乏という容赦のない教師は、強い子と絶望した子どもの双方を生み出していたのであって、子どもたちは二極化していたのです)