カイト・カフェ

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「親もつらい」~昔の親は偉かったという幻想

 昨日、三田先生が配布された資料の中に、「これまでの教育は家庭教育によって一定水準にまで高められた子を前提としてきたが、これからはそれを前提としない教育を考えていかなければならない(大意)」という文がありました。しかしこの「家庭教育」が親の教育ということなら私は賛同しません。昔の親は立派だった(今はだめになった)というのは、昔の先生は立派だったというのと同じくらいに幻想だと思うからです。

 食うに忙しかった昔の親たちが、きちんと教育していたなんてことはあるはずがありません。特に農家の嫁などというものは体の良い労働力購入で、昼は野良仕事、夜は機仕事で育児なんてしている暇はなかったはずです。子育ては姑と小姑、それにたくさんいた兄弟姉妹の仕事です。近所では大量のガキたちが “寄ってたかって”人間関係の教育をしてくれました。そして何よりも「貧乏神」という偉大な教師がいて「ものを大切にすること」や「働くこと」、「忍耐強くがんばること」などを教えてくれました。親なんて、もしかしたら夜疲れ果てて家に帰り、ただ子どもを甘やかしていればいいだけだったのかもしれません。その意味では「(親ではなく)家庭の養育機能」は高かったはずです。

核家族」は、家父長制度の封建性を克服しようとした戦後世代がようやく編み出したひとつの答えです。それによって日本人は集団のしがらみから自由になりました。しかし同時に、家庭内から両親以外のすべての養育者を消してしまったのです。

 今や親たちは“二人ぼっち”で子どもを育て、その全責任を二人きりで取らねばなりません。それは大変な負担です。しかも二人ぼっちの子育てが日本史上はじめてのことですから、どこにもお手本がないのです。

「親が悪い」「親の責任」、もちろんそういうことも多々あります。しかしそう言って学校や公的機関が手を引いても、それで突然子育てが上手になるわけではありません。そもそもうまく行かないからこそ「親が悪い」「親の責任」などと責め立てられているのです。

 ですからある意味で、「親が悪い」ときこそ私たちの出番なのかもしれません。中途半端に「親」に期待して裏切られるより、私たちでその子を変え、あるいは時間をかけてその親自体を変えていくしかない、そんなふうに思うのです。