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「開かれた学校とスリム化」~学社連携について③

 いみじくも安倍元首相が「ゆとり教育は、理念は正しかったが先生たちが理解できなかった」と言ったように、「ゆとり教育」はあまりにも高邁な理想でした。それを可能とする教師もたくさんいましたが、普通の教員が日常の努力でなしうるものではなかったのかもしれません。
 同様に「学校のスリム化」もどこまで現実を踏まえて提案されたものか、はなはだ疑問です。

 1995年4月、経済同友会は(1)学校をスリム化する、(2)教育に多様な人々が参加する、(3)子どもたちが多様な集団のなかで成長できるようにする、の3点を考え方の基本にして「学校から『合校』へ」という提案を行いました。翌年文部省の中央教育審議会はその線にそった答申をします。そこで強く示唆されたことは「開かれた学校」と「学校のスリム化」でした。

 この答申ではまず「子供たちの教育は、単に学校だけでなく、学校・家庭・地域社会が、それぞれ適切な役割分担を果たしつつ、相互に連携して行われることが重要である」と高らかに謳い上げられました。(第4章 学校・家庭・地域社会の連携)
 そして「開かれた学校」については、

  1. 保護者や地域の人々に情報を開示し、人々の意見を十分に聞くこと、
  2. 地域の教育力を生かしたり、家庭や地域社会の支援を受けること、そして
  3. 施設開放や学習機会の提供などによって地域社会の拠点としての活動に取り組むこと、

などが求められました。

 学校のスリム化については「我が国の子供たちの生活において、時間的にも心理的にも学校の占める比重が家庭や地域社会に比して高く、そのことが子供たちに学校外での生活体験や自然体験の機会を少なくしている」と分析し、次の2点を例に挙げて改善の方向を示しています。

  1. 日常生活におけるしつけや社会的活動については「むしろ家庭や地域社会で担った方がよりよい効果が得られるものを学校が担っている現状がある」そこで、「家庭や地域社会が積極的に役割を担っていくことを促していくことが必要である」
  2. 部活動は意味あるものだが、「学校が全ての子供に対して部活動への参加を義務づけ画一的に活動を強制したり、それぞれの部において、勝利至上主義的な考え方から休日もほとんどなく長時間にわたる活動を子供たちに強制するような一部の在り方は改善を図っていく必要がある」。指導に際して地域の人々の協力を得るなど地域の教育力の活用を図り、可能なものは「地域社会にゆだねていくことも必要である」としています。

 このとき中教審の方々は子どもの周辺にどのような教育環境を描いていたのでしょう。
 強い支配欲と名声欲、古くからある隠蔽体質と高慢に支配された教師たち、それに対して豊かな教育力と善良な心を持つ地域社会はただ見守るしかない・・・そんな明治時代の(どこか山村にはあったかもしれない)風景を思い描いていたとしか思えません。

 学校が肥大したのは家庭や地域の教育力が衰え、「子供たちに学校外での生活体験や自然体験の機会」が極端に減った隙間を補っているうちにそうなっただけです。学校が手を引けばその部分に家庭や地域が浸透してくるというものではありません。そこにはただ空隙が残るだけです。
 部活も中規模校で十いくつもあるバレーボールだのテニスなどに外部コーチを当てることなど最初から不可能でした。しかし中教審の人々の頭の中には、毎朝毎夕学校にきてコーチングができる優秀な暇人がいくらでもいたのです。

 私たちだけがよく知っていますが、この「開かれた学校」づくりと「学校のスリム化」によって、学校はさらに肥大していくことになります。

(もう一度、続きます)