「なぜこれほどの体罰・パワハラが残ったのか」〜パワハラと指導の狭間で2

 

f:id:kite-cafe:20181215104851j:plain
(ラファエル・コラン「海辺にて」)

 

【三つの衝撃】

 速見コーチが宮川選手を殴る動画は、関係者及びニュースの視聴者に大きな衝撃を与えました。

 宮川選手の発言を真に受けて塚原夫妻糾弾の狼煙を上げた瞬間に、「もしかしたら処分を下した塚原夫妻は正しかったのではないか」と思わせる事実が出てきたからです。

 しかしそれとは別の意味で衝撃を受けた人たちもいたのかもしれません。

 それはオリンピック選手を育てるような日本の最高水準の指導の場で、あんなあからさまな暴力が今も行われていたという衝撃です。

 

 もちろん義務教育や高校教育の場で体罰が完全になくなっているわけではありません。しかしそれは特別の場面で特殊な人が行う、突発的な暴力です。

 ここ20〜30年の間、体罰を行った教師はほぼ無条件に懲戒免職になっていますが、教師の懲戒免職は職や退職金や年金の一部を失うだけではなく、教員免許も奪われて二度と同じ仕事につけない重大処分です。

 いくら教育に情熱を傾け部活に熱中したからといって、二度と教師として飯を食うことができないことを承知で、他人のお子様のために殴る人はいません。

 

 病的な状況がなければ、教員は体罰などしない――。

 そんな学校の人間から見ると、今も暴力が黙認されている指導の場が残っていたということ自体が大きな衝撃なのです。

 

 さらにこれまで私たちが正しいと教えられてきた道が、閉ざされたかもしれないという意味でも衝撃的でした。それは、

体罰は指導者の力量のないことの証明である。きちんとした指導技術を磨けば、体罰の必要はない」

というものです。

 オリンピック選手を育てたコーチが無能であるはずがありません。その超一流コーチでさえ暴力に頼らなければならないとしたら、暴力こそ選手育成の最後の決め手かもしれない、そんなことすら頭に浮かびます。

 それにしても彼らはなぜ殴るのか、なぜ怒鳴り、選手を追い詰めるのか。

 

 

【なぜ怒鳴らずにいられないのか】

 私も30年前は中学校の部活顧問でした。

 そのころすでに生徒を殴る文化は学校から消えていましたから、さすがの私も選手に手を挙げたことはありません。しかし怒鳴り上げることはしょっちゅうでした。怒りに任せてというのではありません。むしろ冷静なくらいの計算があってのことです(と当時の私は思っていた)。

 それは子どもの技能を伸ばすためです。

 

 スポーツを専門にやっていなかった人でも体育の授業なので技能や成績に“壁”を感じたことのある人は少なくないでしょう。

 鉄棒の逆上がりは一回できればあとはいくらでもできるのにその一回目ができない、走り高跳びで1m15cmは跳べるのにその2cm上は何度やっても跳べない、100m走でどうしも13秒を切れない、柔道で同じ相手が常に倒せない、そういった“壁”です。

 

 教師はその壁を乗り越えさせるためにさまざまな方法を使います。

 どんなスポーツにも基礎となる指導法はありますからそれをすべて繰り出し、教師自身が開発したいくつかの指導法も全部試して生徒を伸ばそうとします。しかしそれでも“壁”が乗り越えられない、そういう場合もあります。

 

 もちろんそれが生徒のすべての限界なら諦めますが、体力・筋力・巧緻性といった基本的運動能力の限界ではなく、自信のなさや弱気、不安のためだとしたらどうでしょう。

 当然教師はそれを克服すべく誉めたり、励ましたり、ゆっくり時間をかけて話し合ったりします。しかし果てしなく待っているわけにはいきません。

 授業だったら単元の入れ替えがありますし、部活動だったら練習試合や大会があります。

 

 そこで極まった指導者は「追い詰める」という手法を使うのです。指導者の側に繰り出す手段がなくなって選手の側に特別な力――窮鼠が猫を噛むような力、火事場の馬鹿力――が生まれるのを期待する手法と言っても構いません。退路を断ち、押し込み、自信のなさ・弱気・不安といったものを一瞬忘れさせて一気に勝負をつける、そういう方法です。

“壁”は一度超えればいいのです。目標にしていた演技ができた、記録が出せた、相手に勝てた、という経験を一回すれば二度目以降はすんなりと進んでしまうものなのです。

 

 そのために「暴力や罵声によってブレークスルーを果たそうとするのは指導の邪道」と言われても構いません。とにかく選手が伸びればいい、目標を達成できればいい、ひとつでも上の段に立てればいい――そう考えると邪道でも脅迫でも(昔なら暴力でも)、何でも繰り出してやろうという気になります。

 子どもを伸ばしたい一心なのです。

 

 

【なぜこれほどの体罰パワハラが残ったのか】

 動機さえ良ければすべてが許されると思っているわけではありませんし、一流の指導者のように必要な時に瞬時に必要な対処を繰り出し、知識と経験と言葉で“壁”を突破させられるならそれに越したことはありません。

 しかし世の中には私のような、担当競技未経験の四流・五流はいくらでもいるのです。

 

 私もかなりまじめで熱心な部活顧問でしたから、あのまま同じ部活を10年・20年と続けていれば、きっといつかは2流くらいにはなれたはずです。しかし10年は待てなかった。

 顧問は10年かかって技能を高めればいいにしても、生徒は毎年毎年一回限りなのです。普通の子が選手になれる中学3年生は、生涯に一度しかきません。

 

 だから体罰パワハラもしかたないと言うつもりはありません。

 

 部活顧問も含め、スポーツの指導者は常に本気で誠実に、子どもの成長を願ってそれをしている、つまり正しいことしているつもりだから厄介だ、うまくいかない、体罰パワハラはなくならない、という事実を言っているだけです。

 

 そうした事情を考慮しない対策が、効を奏しないのはそのためです。

 

 

                         (この稿、続く)