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「遠山の金さんの日」~金四郎はいかにして刺青を刺すに至ったか

 今日、3月2日は「遠山の金さんの日」だそうです。遠山金四郎景元が北町奉行に就任した日(1840年)で、それを記念しています。

 あまり知られていませんが、遠山金四郎のお父さんも通称「金四郎」で、役人の能力としてはむしろ上だったのかもしれません。なにしろの幕臣の永井家の四男坊でありながら遠山家に養子に来て、昌平坂学問所を首席で卒業し、幕府代表者としてレザノフ事件に立会い、長崎奉行から勘定奉行に上り詰めたというのですから只者ではありません。
 ただし家庭的には厄介な問題を抱えていました。

 彼が養子に来たのは当然、遠山家に男子がいなかったからです。しかし養子に来て息子の金四郎(以下「子金」と略す)が生まれたとたんに遠山家に男子が生まれてしまいます。父親の金四郎(以下「父金」)は困り果ててしまいます。そのままだと実子の「子金」に家督が繋がらないからです。当時の武家にあって家督を継げないというのは、一生、家長からもらう小遣いだけで無為徒食の生活を送らなければならないのです。そんな悲しいことを「子金」やその子孫にはさせられません。

 そこで父金は順番を入れ替えて、遠山家の息子(Aとする)を「父金」の養子とし、Aの養子に「子金」を入れます。こうすると「父金」→A→「子金」の順で自分の実子に家督が移行します。ところがまた困ったことに、長じてAが結婚するとそこにも男の子が生まれたのです(以下B)。何のことはない、遠山家は「父金」など養子にせず、ただ待っていれば家系が続いたのです。

 また困った「父金」は今度は養子縁組を「父金」→A→B→「子金」の順にし、ただひたすらAとBが自然死するのを待つことにしました。なにしろ寿命の短い時代ですから、100分の1くらいは可能性があると考えたのかもしれません。ただし二人が死ぬまで、「父金」は隠居できません。

 かくして「父金」は77歳まで奉行の地位にとどまり、遠山家の実子が死ぬのを待って隠居、めでたく「子金」にすべての家督を譲ります。このとき「子金」はすでに36歳です。

 遠山の金さんに本当に刺青があったかどうかはよく問題にされますが、記録によると袖がまくりあがるのを非常に気にしたといいますから、手首近くまでの刺青があったのかもしれません。何しろ36歳までまったく働いていない人ですから、若気の至りで悪さをしていた可能性は非常に高いのです(よく、TVの時代劇に出てくる悪人の類型に「旗本の四男坊」というのがあるのも、そのほとんどが生涯飼い殺し状態で非行に走りやすかったためです)。

 ただし「桜吹雪」の刺青というのはむしろ元禄時代的で金さんの生きた化政時代的ではありません。そのころの流行から考えるとむしろ「カッと目を見開いた女の生首」といったおどろおどろしいものだった可能性の方があります。

 また、金さんが庶民の味方だったという話もどこまで本当か分かりません。ただし時は天保の改革の時代、当時の南町奉行は妖怪・鳥居耀蔵です。水野忠邦の忠実な部下で質素倹約を徹底して庶民をいじめた男です。一方金さんは鳥居と対立し失脚しかかったり、また天保の改革に対してもあまり熱心に仕事をしなかったりしたふしも見られます。

 熱心に仕事をしないから庶民から慕われる、なかなかいい役どころだったのかもしれません。ちなみに北町と南町は月番で、基本的に一ヶ月交替で表向きの仕事をしましたから、金さんと鳥居との違いはいやがおうにも際立ったはずです。
(しかしそれにしても「金さんの日」って、誰がどこで何をして祝うのだろう?)