あまり思い出のない父について思い出しながら書いています。
話そうとしたのは、私が二十歳になった年の秋、たまたま父が出張で都会に来た晩のことでした。
【父にとって特別な日、私にとっては平凡な日】
新宿駅で待ち合わせた父は夕食に私を誘うと一緒にうなぎ屋に入りました。
うな重などという高価なものは、別に食べたくもなかったのですが父は「特上」とかを頼んでしまいます。その上お銚子を2本も頼み、嬉々として私に酌などをします。私は酒も飲みたくなかった、酒のためにせっかくのうなぎを十分味わえないような気もしていました。
しかし父はほんとうに嬉しそうだった。
しばらく当たり障りのない話をしながら(たぶんそうだったと思う)食事をし、酔いも回ってさて父の泊まるホテルまで送ろうかというときになって、父は突然、駅近くのパチンコ屋に私を引きずり込みます。その上100円も出せばたっぷり玉を借りられる時代に、200円も出していっぱいになった箱を私に押し付け、隣に座って打ち始めます。
パチンコなんて二人で並んだらどちらかが必ず負ける、あるいは二人とも負ける(アタリ台が並んでいるなんてことはありえないから)、だから家族や仲間で並んで打ってはいけないのですが、隣に来たがる。私は少しイライラしました。
勝てそうになかったからではありません。息子と一緒に酒を飲みパチンコをする、そんな絵に描いたような大人の親子物語を演じるのはかなわないと感じていたからです。
最初からそういうつもりだと知っていれば、私ももっとうまく演じることもできたかもしれません。しかしいきなり特別な価値観を突きつけられて巻き込まれるのは御免なのです。
もちろんそうした場合にもさっと対応できる優秀な“息子”はいようかと思いますが、私はそういう人間ではありませんし、そうしたことを親子で楽しむには小さなころからもっと丁寧な親子関係を紡いでおく必要もあったはずです。
あっという間に玉を使い果たすと、私よりさらに早く終わってしまっていた父は追加の玉を私の箱に流し込みます。それも何となく嫌でした。
そしてホテルへ送り――それだけです。以後、父と二人きりで飲むことは二度とありませんでした。
父はこの日を心待ちにしていたに違いありません。息子と一緒に酒を飲みパチンコを打つ――もしかしたらその日のために頑張って仕事をしてきたのかもしれません。なのに私は少しもそれを楽しんでいない。私はその日のことを長く引きずりました。
それで父との関係が悪くなることも良くなることもありませんでしたが、何か心に引っかかったのです。
【父と似ていること】
後年、私も二児の親となり、けれど父とは全く異なる子育てをしました。厳しく自分を戒め、社会人として、家庭人として、均衡のとれた人生を送ろうと決めていたからです。
仕事も子どものことも怠ることなく努めたつもりです。
それは仕事人間だった父とは根本的に異なる生き方ですが、ただしそうした生活を送るうちに、子どもに対して全く異なる対応をしながら、自分の中に父とそっくりな部分を発見したのです。
それは子どもが幼稚園に上がるとき、小学校に入学する時、3年生を終えて小学生を折り返すとき、中学校へ進むとき、高校への進学したとき、そして家から手放したとき、その時々で子どもへの対応を大きく変えたということです。
小学生になったのだからこれは許そう、あれは禁じよう、中学生になったらあれはやってもらわなくてはならない、これはもうしなくていい――そういったことです。
そして理解したのです。
あの新宿の夜は、父にとってそうした切り替えの最後の一回だったのではないかということです。ひとつずつ昇ってきた階段の、最後のステップを踏んで以後、父は私の生き方に何も言わなくなりました。黙って出すときは金だけは出してくれた。
就職のときも転職の時も、長く結婚しなかったことについても結婚することに関しても、家を建てることについても、一切なにかを言うということはなかったのです。
そして新宿の夜、二十歳の私もそのことをうすうす感じていたのです。
ただし当時の私はほんとうに根性なしの甘ちゃんで、まだ大人扱いされるだけの十分な自信がなかったのでしょう。
「もう大人だ、自分で決め自分で責任を取れ」そんなふうに扱われるのはたまらなく怖かったのです。
あの夜の“嫌な感じ”には、そういった意味があったのだと、今は思うことができます。
ですから私自身の二人の子については、大学を卒業するまでは子ども扱いにし、今も一人はそうしています。