カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「N」~親から子どもを守る大切さを教えてくれた子

 Nは30年以上前、私が学習塾講師をしていたころの教え子です。たぶん小学校4年生くらいのときに教室に入ってきて、Nが中2になるとき、私の方が塾をやめて故郷に戻りました。

 小柄で丸顔の、非常に可愛い女の子でいつもキャピキャピ騒いでいるのに、一方で異常なほど自信がなく、勉強もさっぱり進まない。数学が苦手で十分に練習して応用題まで進み、それを独力で解いて丸をもらってもまだ不安で、満点の小テストを見ながら怯えたような表情をしている、そんな子でした。
 お兄ちゃんが偉くて頭がいい、そのお兄ちゃんばかりを可愛がってお母さんは私のことなど気にしないーー同僚からそんな話も聞きましたが、私には妙になつかない子で、4年も一緒にいたのにこれといって話もすることなく分かれた、それだけの子のだったはずです。

 ところが離れてから3年後、京都の新京極の土産物屋で、Nに偶然会ったのです。私の方は中学校の修学旅行の引率で、向こうは自分自身の高校の修学旅行の途中でした。
「テーちゃん!」(と昔は呼ばれていた)という大きな声で振り向くと、そこに満面の笑みをたたえてNがいたのです。そのときは互いに近況を語りあってそのまま分かれたが、特に親しかったわけでもないNと遠く離れた京都で偶然会ったことには、なにやら因縁めいたものを感じました。

 それからまた3年ほどして、今度は学校の事務室にNからの電話が入りました。大学を休学してA高原にアルバイトに来ている、時間があったら会いたいとのことです。驚いたことに私が○○県の教員をしているということで県教委に電話をして、所在を調べたというのです。さっそく次の日曜日に駅で待ち合わせをして、市内を案内しながらさまざまな話をしました。このとき初めてNの生活の細々としたことを知ったのです。

 自信のなさは相変わらずだといいます。
 高校を選ぶときも教師が勧める学校より2ランクも落としたのに、受験の朝は足が震えた。玄関で足が震えて前へ踏み出せないでいると母親が背後から「なによ、怖いの? あんな学校を受けるのに緊張も何もないでしょ」と追い討ちをかけた。母とはもともとうまく行っていなかったが、この瞬間から完全にダメになった。

 高校・大学を通じて精神科通いがやまなかった。家にはいられなくなってアパートに出たがそれでもうまく行かず、大学も続けられなくなって休学した。父だけが私を支えてくれる。母はいつも兄のそばにいる、
 そんな話でした。私が何を答えたのか今となっては思い出せません。

 それからしばらくは年賀状だけの付き合いになり、そしてある日、教会の前で撮影した写真とともに結婚の報告が届きました。
 二人だけで式を挙げたといいます。父親は亡くなったと書いてありました。そしてまた4〜5年ほどして、今度は元気に暮らしているというメールがアメリカから届き、それが最後の連絡となって以後、Nがどうしているか私は知りません。

 本当はもっとたくさんのことがあったのですが、こまごまとしたことは皆忘れてしまって思い出せません。とにかく小さな頃から母親にズタズタにされた子が、高校大学時代を病院通いしながらかろうじて生き抜き、家族を捨て、ひとりで結婚し、アメリカへ渡ったのです。 
 今ならもっと気のきいたこともできたしすべきこともあったのに、私はずっとNの傍観者としていただけでした。
 いまでも時々Nのことを思い出すのは、この子が”親からも子どもを救わなければならない”と教えてくれたからです。