カイト・カフェ

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「水戸黄門」~ほんとうの姿とコーモン味噌

 今日、12月6日は水戸黄門のなくなった日です。西暦1700年、73歳の、当時としては大往生でした。

 私は歴史上の人物の生年や没年についてほとんど覚えていないのですが、それでも黄門様のように覚えやすいものの2〜3を記憶しておくとけっこう便利なことがあります。たとえば黄門様が1700年に亡くなったことを知っていると、1716年(この年号は強制的に覚えさせられます)に享保の改革を行った徳川吉宗は同じ徳川家の人間として会ったことがあるのではないか、といった疑問がわきます(これは実際に会ったことがあります)。あるいは西洋史名誉革命(1688年。「色やや薄い名誉革命」なんてやりました)が行われた時期と、黄門様が水戸の実権を握っていた時期とはほぼ同じだとわかって何となく歴史の構造が見えてきたりします。

 水戸黄門は17世紀の水戸の藩主で、正しくは徳川光圀(みつくに)と言います。官職としては「権中納言(ごんちゅうなごん)」ですが、中国の官職でこれに対応するのが「黄門侍郎」、略して「黄門」というのです。昔は上位の者を名前で呼ぶのをはばかりましたから、そこで水戸黄門と呼ばれます。

 高校の日本史に出てくる黄門様は全国を漫遊行脚した人としてではなく、「大日本史」という史書の編纂を始めた人として描かれています。「大日本史」の編纂事業は幕末まで続けられ、そこから尊皇攘夷の礎となる水戸学が生まれます。桜田門外の変の暗殺者の多くが水戸藩の浪士だった背景にはそういう事情があります。

 黄門様は「大日本史」の編纂にあたってひとりの懐刀を全国に行脚させます。それが家臣の佐々宗淳(さっさ むねきよ)であり、もうひとりの懐刀、安積覚兵衛(あたか かくべい)とあわせ、助さん(佐々木助三郎)格さん(渥美格之進)のモデルだと考えられています。ただし三人で旅をしたことなどはありません。

 ちなみに、かつて黄門様一行がテレビの中で、午後8時15分ごろに「しばらく様子を見ましょう」などと言って問題を複雑化したあげく、8時43分ごろ、問題を恐ろしく単純化して上意下達で解決しようとするとき、かならず見せびらかした「葵のご紋の印籠」、あの印籠というのは薬などを入れる小型の容器だそうです。効能はたしかにものすごくありそうです。

 ところで昔、大学時代に茨城出身の友人から、水戸には「黄門味噌」という名物味噌があると聞かされ、それが面白くて何年も懐で温めていたことがあります。それを結婚したばかりの妻に話したら「そんなのウソに決まっている」と一蹴されてしまいました。
だってイメージ悪すぎじゃない、『コーモン』と『ミソ』よ。誰が買うと思うの。百歩譲って『味噌(水戸)黄門』という駄洒落ならわかるけど、『黄門味噌』なんてありえない。」

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 それ以上反論の余地はないし、当時すでに力関係は定まっていたので黙ってしまいましたが、何年か後にインターネットを始めたとき、最初に検索したのが「黄門味噌」でした。そしてそこに目指した味噌はなく、あったのは「黄門さま甘口マイルド米麹みそ」という長ったらしい名前の味噌だけでした。ちなみに先ほど何年かぶりで検索をかけたところ、今は「黄門さま甘口マイルド米麹みそ」もなく、今度は「味噌黄門」がヒットしました(妻が正しかった)。
 時代は、変わる。