「音楽としての国語」~音読のススメ

 十数年前何かで読んだ学校教育批判。
 「学校では未だに音読というバカげたことが行われている。先生に指名された生徒が一人ひとり起立して、一文ずつとか一行とか読まされるのである。明治以来の伝統のようだが、なんとむだなことをと呆れかえる。いったい今の日本のどこに、声に出して文を読んでいる大人がいるだろう。文は黙読してこそ速く読めるのであり、音読では内容をつかむのも容易ではない。未だにこんなに古い教育法に縛られている教育界は、もはや制度疲労というしかないだろう」
 そんな内容でした。

 当時私は中学校の社会科教員であり、資料の速読・内容把握というのが重要な現場にいたので、愚かなことにこの話にすぐに飛びつきました。そしてしばらく吹聴して回っていたのですが、それはほんとうに浅はかなことでした。

 2001年になって「声に出して読みたい日本語 」(斎藤孝著 出版社: 草思社 2001)が出版されると世論は一変します。そして言われたことが、
「日本語はリズムが命である。我々は日本語のリズムでものを書き考えている。それにもかかわらず学校の教室から、近ごろ音読の声が聞こえなくなっているという。日本の教育はどうなまってしまったのか」

 考えてみると私自身、文章を書くときはリズムを最優先にしています。
 日本語は不用意に書くと文末はすべてア段とウ段に納まってしまいます(「〜だ」「〜だった」「〜だろうか」「〜です」「〜だろう」)。これは音楽的に非常に単調です。これを乱そうとすると「〜でない」「知らない」と「ない」を使ってイ段で納める「ん」で終わらせるか体言止めしかありません。文全体も、私の体内リズムに合わせて、合の手のような単語を入れたり文節を削ったり、それで意味が通じなくなれば別の単語に置き換えたりと、やっていることはいかに私のリズムで言いたいことを書き抜くかという「音と論理のせめぎ合い」なのです。

 音読がダメだと言ったり必要と言ったり、いずれにしろ教師の愚かさということで、メディアは記事を売るためならどんな不実も平気でします。それにいちいち振り回されていたら学校教育はひとたまりもありません。しかし同時に、学校には私のような愚か者はそうはおらず、音読が軽んじられる時も重要視される時も、同じく小学校の先生は淡々と音読を続けていたことを信じて疑いません。学校というところは子どもたちの成長にとって必要なことは、必ず残る自然のシステムを持っているからです。

 江戸時代の寺子屋では子どもが『四書五経』やら『十八史略』、『唐詩選』などといった難しい書物の音読や暗唱をさせられています。授業を受けているのは基本的に商家や農家の跡を継ぐ子たちです。もちろんほとんどの子が訳も分からずやっていましたし、何の役に立つのかといえばさらに分からなかったはずです。しかし寺子屋の師匠は教えることをやめませんでした。それが必要だったからです。

 良い文章をたくさん読ませ、文章の良いリズム感を身につけさせたいものです。