「学校智」~なくしてみないと分からない学校の知恵

 昨日のブログで「学校というところは子どもたちの成長にとって必要なことは、必ず残る自然のシステムを持っている」と書きました。これを私は「学校智」と呼んでいます。

 学校智は困ったことに量も種類もが多すぎて、その智に従っている教員自身でも分からなくなっていることも少なくありません。いやほとんどがそうだと言っていいでしょう。

 たとえば私は初めて小学校の教員になった時、なぜ子どもが並んで教室を移動するのか分からず、「各自、自覚をもってきちんと来るように」と諭して自由に移動させることにしました。小学校の先生ならその結果何が起こるか直ちにお分かりでしょう。
 まず特別教室に子どもが来ない。なかなか揃わない。揃ったかと思うと教室への忘れものが絶えない。忘れ物を取りにやらせるとなかなか戻ってこない。その結果私は怒り、子どもは気分を害する。人間関係はどんどん悪くなっていく・・・。
 教室を出るとき持物をチェックして並んで来れば、どうということはなかったのです。子どもも物も揃う、私は怒らなくても済む。人間関係も悪くならない。

 子どもを並べて移動させるという技術を、小学校の先生たちは初任の時にきちんと教えられて始めたわけではないでしょう。私のように失敗を積み重ねてやっと理解したわけでもありません。多くは小学校時代の自分の経験から、あるいは隣りのクラスがそうしているから、というだけの理由で始めたに違いありません。それが学校智です。

 Wikipediaの「三角食べ」の項目には次のような説明があります。
「三角食べ(さんかくたべ)とは、和食を食べるときに飯と味噌汁とおかずを“順序よく食べる”方法のことである。もともと、1970年代頃、日本の一部の学校における給食の指導で広められた言葉である。“和食をおいしく味わうため”として指導が行われたが、過度の管理教育につながった。(中略)これにより、給食嫌いが発生したり、千葉県などの管理教育が行われていた一部の学校では本来の三角食べの趣旨を逸脱し、児童・生徒を管理するための手段として利用された」
 Wikiの記述者たちは一般人です。一般人から見ると学校給食とはこんなふうに見えるのだと思い知らされるような記述です。

 たぶんこの人は現実の子どもの姿―おかずも汁も牛乳も食べつくして白米だけになった給食を悲しく見つめる子どもの姿を見たことがないのです。今日そうなったから懲りて明日は改善するということが、簡単にできないのが子どもなのだということを知らないのです。しかし学校智は子どもに「給食は三角食べで、それが無理でも順番に食べるものだ」と教えます。

 なぜ全国の小学校で運動会が行われているのか、なぜ中学校に合唱コンクールが定着したのか、なぜ授業の最初と最後に挨拶をするのか、なぜ毛筆習字がなくならないのか、修学旅行はなぜ奈良京都なのか、そうしたことにはすべて深い意味がある可能性があります。
 学校は保守的で校長は常に保身に走っているといった言い方をされますが、近代教育だけでも150年も保持してきたやり方には何か意味があるのかもしれない、そう思うと安易に手を出せない、それが実際のところでしょう。

 ところで私にはひとつの野心があります。それはこうした学校智を片端から言語化し、きちんと説明できるような形にしようというものです。昔だったら説明抜きに引き受けてくれた社会も、今はいちいち説明して納得しないとすぐに文句をつけてきます。

 そしてそれができれば、訳のわからない教育改革の流れに堰を築くことができるのかもしれないからです。