カイト・カフェ

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「日常の計算はできない」~フィンランドの教育①

 先週紹介した実川真由 /実川元子 著「受けてみたフィンランドの教育」(文藝春秋 2007)というのはほんとうに興味深い本です。

フィンランド学力世界一」PISA2003以来、さまざまな人々がフィンランドに出かけ、やれ少人数教育が決め手だの、教師が尊敬され大切にされているだの、あるいは小さなころから読み聞かせをされているとか読書量が多いとか、さらには教員が全員修士であって非常に優秀で責任感が強いなどさまざまな言われ方がしましたが、結局具体的な日常となるとこうした留学体験記の方がはるかに確実です。たとえば、
 フィンランドの高校では、数学のテストのときに持ち込むものが二つある。筆記用具と計算機だ。
 数学のテストに計算機が持ち込めるなんて夢のような話であるが、事実だ。しかもこの計算機はただ「足す」「引く」「かける」「割る」だけの機能にとどまらない。( )のついた難しい数式も一瞬にして答えが出る。数式を打ち込み、エンターを押せばx軸とy軸が現れ、数式がグラフになったりする(なんだか、 とても数学ができない人のような説明になってしまったが)。
(中略)
 
このように、自分で書いて計算するという行為は高校ではしなくなるため、フィンランド人は暗算が不得意だ、というか暗算をしない。

 私はフィンランドの教育についてけっこうな量の文章に目を通していますが、こんなことを聞いたのは初めてでした。さらに暗算をしないフィンランド人が買い物をするとこういうことになります。

(スーパーマーケットでの買い物で)
 24ユーロ22セントだったので、私は54ユーロ72セントを払ったら、スーパーの人は、嫌な顔をした。そこにホストプラザーが慌てて来て、4ユーロ72セントを取ってしまった。50ユーロで支払ったので、おつりが大量にきて、私の財布が重くなった。(中略)それほどフィンランド人は暗算をしようとしない。レジではじめて自分の買った品物の合計金額を知るらしい。

 987円の買い物に1087円渡して100円のお釣りをもらうといったことは日本ではありふれた光景です。それどころか1487円渡して500円玉の釣りをもらおうとすることだってあります。財布の中の硬貨は少なければ少ないほど便利だからです。

 渡された方も瞬時に意図を解します。しかしそれができるのは、ほしい釣銭を瞬間的に見積もって987+100=1987とか987+500=1450といった暗算ができる場合であって、それができなければ確実な金額(請求額をはるかに上回るきっちりした額)を出してレジスターに計算してもらうしかありません。

 もちろん電卓のある時代に暗算ができることにどういう意味があるのかとか、釣銭が重くて困るようなら小銭をレジスター横の募金箱に入れるような国民性を築けばいいとかいった話になるなら、それもいいかもしれません(実際にそう考える人もいます)。

 計算は電卓、漢字の書き取りはワープロにと、それぞれ文明の利器に任せて無駄なドリルに費やす時間を減らしたらし、その分を文章読解に振り向ければ相当なことができるでしょう。

 どうしても読解力世界一を目指すというならそのくらいのことはすべきですし、そうでなければそもそもフィンランドと日本を同じテーブルで比べるのは不公平です。フィンランドの子どもは計算練習なんかほとんどしていません。

 もっとも、ほんとうのことを言えば私は、読解力世界一でなくても、毎日小銭の始末に頭を悩ませなくて済む日本の方がよほど性に合っていると思っています。
*そもそも学力の国際比較というのがどこまで公平性が保たれているか、疑問に思っています。共通問題の原案が何語で書かれたかといった点だけでも公平性の上では大問題です。あるいは日本のように技術家庭科や音楽・図工まで多様な教科を学ばなければならない国、ドイツのように半日しか授業のない国、フランスのように適切な学力がないと絶対に進級させてもらえない国、そうした様々な違いのある国々を同一のものさしで計るのは不可能だと思うのですが。