先週金曜日、カーラジオでテレビ放送を聞いてたら、子どもに関する視聴者の相談を、タレントたちが話し合う番組をやっていました。
その中に出てきた相談のひとつ。
「小学2年生の息子に買い物を頼む際、電子マネーを持たせた。買い物は無事済んだがそのことを夫に話したら、『電子マネーじゃない方がよかったんじゃない? お金のやり取りも含めて買い物だろ』と言われた。 たしかにそれも分かるが、これからは電子マネーの時代、いつでもお金を持ち歩く時代ではないと思うのですが」
スタジオのコメンテーターたちは概ね夫側と同じ考えで、小さなころにお釣りをもらうとかお金が足りなくなるとか、小銭が増えちゃうとかいった経験をして感覚をつくっておかないと、電子マネーはいくらでもモノが手に入る魔法のカードになってしまう、危険だ、といった意見が大勢でした。視聴者アンケートの結果も持たせるべきではないという回答がほとんどです。
しかし相談者やコメンテーターのひとりの言った、
「のちのち小銭とかはいらなくなる時代になるので、電子マネーを使わせることに問題はないのでは」
という考えも無視できるものではありません。オンライン決済や電子マネーの世界ではそもそも「お釣り」という概念がないのですから、将来そうした時代が来るとしたら「お釣り」の学習は何の意味もありません。
また魔法のカードが心配なら、子どもに持たせるのはプリペイドのカードだけにして、
「これには1000円しかチャージしてありません。友だちにおごっても何をしてもいいけど、来月まで1円も余計には入らないから、そのつもりでね」
とやれば済むだけの話です。
【お釣りの話】
お釣りと言えば、実川真由 /実川元子 著「受けてみたフィンランドの教育」(文藝春秋 2007)の中にとても印象深い話がありました。それは著者である留学生がフィンランドのホストファミリーと一緒に買い物をした時のことです。
合計が24ユーロ22セントだったので、私は54ユーロ72セントを払ったら、スーパーの人は、嫌な顔をした。
そこにホストブラザーが慌てて来て、4ユーロ72セントを取ってしまった。50ユーロで支払ったので、おつりが大量にきて、私の財布が重くなった。
(中略)
それほどフィンランド人は暗算をしようとしない。レジではじめて自分の買った品物の合計金額を知るらしい。
フィンランドが学力世界一と言われてもてはやされていた時期の話です。なぜそんなに計算ができないかというと、
フィンランドの高校では、数学のテストのときに持ち込むものが二つある。筆記用具と計算機だ。
数学のテストに計算機が持ち込めるなんて夢のような話であるが、事実だ。しかもこの計算機はただ「足す」「引く」「かける」「割る」だけの機能にとどまらない。( )のついた難しい数式も一瞬にして答えが出る。数式を打ち込み、エンターを押せばx軸とy軸が現れ、数式がグラフになったりする(なんだか、とても数学ができない人のような説明になってしまったが)。
(中略)
このように、自分で書いて計算するという行為は高校ではしなくなるため、フィンランド人は暗算が不得意だ、というか暗算をしない。
これは本質的に「子どもに電子マネーを持たせて良いのか」と同じ話です。電子マネーの時代が来るのになぜお釣りの学習をしなくてはならないのか、電卓がある時代に、なぜ暗算やひっ算を学ぶ必要があるのか――。
2007年の段階では、 「だって中に書いてあるじゃないか。『おつりが大量にきて、私の財布が重くなった』って。それに店側にしても、レジの引き出しが高額紙幣ばかりで釣り銭不足になったら困るじゃないか。暗算ができて適正に支払うのは、両者にとって利益だ」 という反論も可能です。しかし今や電子決済の時代、フィンランドだって(というかフィンランドこそ)みんなカードやスマホでピッピッとやっているに違いありません。
そういえば古いアメリカ映画で買い物の様子を見てると、18ドルの買い物をするのに客が10ドル札を二枚出すと、カウンターにその20ドルと品物を並べ、品物の隣に1ドル、2ドルと紙幣を置いて「ホラ、こちらがあなたの20ドル、こっちが品物と紙幣で合わせて20ドル分、交換しましょ」みたいなやり取りの場面が出てきます。
確かにこんな国では電子決済が発達するわけです。
その他、詐欺の横行する国、紙幣の交換が進まず紙幣がベトベトでとても触れたものではない国、そういったところでは電子決済が進みます。日本はそのいずれでもありません。にもかかわらず電子決済が売買の中心になる――それはそれで議論になるところですが、そうした状況で、計算ができるようになることや現金のやり取りのできることに何の意味があるのか――こちらも大きな問題です。
(この稿、続く)