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「友だちに”死ね”と言った子どもは指導されなければならない」~学校の常識①

「学校の常識は世間の非常識」と言われますが、学校内で当然と考えていることが、世間では少しずれている、ということがよくあります。

 例えば、小学生が親に無断で買い食いをしたとか、学校外へ子どもだけで遊びにいったとかいった話を聞けば、教師は当然指導の対象と考えますが、保護者の中には「?」マークを頭につけて、首をかしげている人がいます。
「その程度のことで、何で怒られなければならんの?」というのが率直な思いなのでしょう。その点では親子共通しています。

 「死ね」といういたずら書きをした子どもの指導をしたら、保護者があちらにも悪いところがあると抵抗したという話がありました。これなども典型で、子どもは軽い気持ちで書いたのだからこんな重苦しい指導が果たして必要なのかと、心の奥底では不信感を燃やしているのです。学校の常識は世間の常識ではありません。

 さてところで、15年前の愛知県・大河内清輝くんの事件や「葬式ごっこ」で有名な鹿川裕史君の事件では、そのいじめの過酷さが次第に明らかになり、ここまでやられれば死ぬのも分かるな、と思わせるものがありました(逆に、同じ人間がなぜここまでひどいことができるのかという疑問は残りました)。しかし最近のいじめ自殺事件報道を見ていると、そうした納得ができる事実が、なかなか出てきません。たしかにいじめはあったにしても、大河内くんたちと比較すれば、これで本当に人間は死ねるのかと、首を傾げるような事例が数多くあるのです。現代では「死ね」と言えば本当に死んでしまう子がたくさんいるのかもしれません。

 ただし世間の人たちは、「実際に自殺したんだから、それに見合う事実が合ったに違いない」と考えます。ましてや学校が「これはいじめによる自殺です」と認めれば、『加害』の子の残虐性は確定しますから、その子の家は崩壊します(瑞浪事件や佐世保事件の『加害者』たちは、今やネット上に名前を曝され、多くのネット・ウォッチャーが鵜の目鷹の目で彼女たちを探しています)。

「死ね」と口にしたり書いたりするのは、相手が本当に死んでもいいと思え、その結果をすべて背負う覚悟ができたときだけです。

「死ね」を軽く考える保護者にはこうした話をしてあげるといいのかもしれません。