カイト・カフェ

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「文章表現という欲望について」~書くことがらをしっかり持てば、表現は自ずとついてくる

 調べたわけではないので確実とはいえないのですが、世界の民族の中で、太鼓やドラムといった打楽器を持たないものはひとつもないような気がします。同様に、拍手をもって賞賛や喜びを示さない民族もないように思うのです。チンパンジーやゴリラだって、しばしば手を叩いて喜びを表現しているように見えます。

 同様に私の見る限り、服飾や刺青によって身体を飾ることのない民族もないと思われます。古代人の多くが必要な最低限の道具を持ちはじめたのと同時に、着飾ることを始めたようなのです。

 ラスコーの洞窟を見るまでもなく、絵画もまた必要性という点ではかなり低いのにも関わらず、人類史のかなり早い段階から始められました。
 リズム・服飾・絵画。表現というのはおそらく本能に近い、人間の根源的な欲望ではないのかと思うのです。

 私も文章を書くのが好きですが、基本的にそうした根源的な欲望に従っているという感じがしています。もちろん、こんなことを知ったからみんなにも知らせたいとか、これは話しておくことが必要だとか思うときもありますが、基本的に読み手を意識することはありません。意識する場合はそれが「読み易いか」「文章として適切か」といった真に技術的な意味だけであって、伝えることにはさほど興味がないのです。

 歌の好きな人が誰に聞かせるというわけでもないのに鼻歌を口ずさむように、あるいは授業に飽きた子どもがノートの隅にマンガを描いてみるように、自分の中にあるものを文章という形で吐き出したいのです。

 作文というとよく「相手意識」や「目的意識」が問題とされますが、それは技術面の問題であって本源的なものではありません。まず書きたいと思うこと、表したいと感じること、そしてその思いがどんどん強まるとある時点で突然、満水の水槽から水が溢れ落ちるように、より高い表現方法への欲求が生まれ出るのではないかと、そんなふうに思います。

 向田邦子の言った「書くことがらをしっかり持てば、表現は自ずとついてくる」という言葉に通じるものです。