このところバラク・オバマが気になって仕方ない背景には、経験の浅い非白人の彼が、どうしてこれほどまでにアメリカ国民を引き寄せることができたのか、という羨望を交えた疑問があるからです。同じ力の何百分の一でも私にあれば、児童生徒や保護者を動かし、子どもたちに素晴らしい一歩を踏み出させることができるだろうと思うからです。
バラク・オバマはケネディの再来と言われた人です。そして日本の政治家の中で、言葉の力で国民を動かすことができたのは、最近でいうと小泉純一郎だけです。そしてこの三人には共通点があります。
それは国民に積極的に犠牲を強いたということです。
バラク・オバマは、
「いま求められているのは、新たな責任の時代だ。(中略)すべての米国人が、不承不承ではなく、むしろ喜びをもって進んで責務を果たすことだ」
と言いました。
ジョン・F・ケネディは
「わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか」
と語ります。
そして小泉純一郎は
「痛みを伴う構造改革」
を旗印に登場しました。
いずれも国民においしいことばかり言う政治家とは異なり、必要な犠牲を求め、ともに頑張ろうという意思を示した内容です。もちろん、その言葉全体がまやかしだった可能性もありますが、少なくともその瞬間、人々は信じる気持ちになったはずです。
大昔の教師は「母ちゃん、オレに任せておけ、この子は必ず何とかするから」などと平気で言っていましたが、いまや教師の力だけで子どもを一廉の人間に育て上げるなど不可能です。保護者にも本人にも、相応の努力と犠牲を払ってもらわなければ、子どもは十分に育ちません。
ひとつ言い方を間違えれば、子どもや保護者を突っぱねたとか見捨てたとかとらえられかねない危険な場面ですが、調子のいいことを言ったり何も言わなかったりするのではなく、保護者にも子供たちにもそして地域の人々にも、お互いに知恵を出し合おう、努力し合おう、犠牲を差し出しあおう、汗を流そう、そんなふうに語りかけることが、ぜひとも大切だと思うのです。