「アパートの片隅のイサクの犠牲」〜目黒女児虐待死事件より②

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(カラヴァッジョ 「イサクの犠牲」)

【続報】

 東京目黒区の女児虐待死事件についてはやはり衝撃が大きかったこともあり、いまだに続報が絶えません。先週末にあったのは次ような話です。
「もうご飯を食べられない」。捜査関係者によると、結愛ちゃんは3月2日に死亡する数日前、食事を与えようとした母親の優里容疑者(25)(保護責任者遺棄致死容疑で逮捕)に弱々しく話したという。
2018.06.21「衰弱女児『もうご飯食べられない』…死亡数日前」読売新聞 )
 ほんとうにやりきれない話です。この唾棄すべき夫婦に対する非難の声はマスメディアにもネット上にも無数にありますから、それにそれに重ねて言うほどの何事もないのですが、この『食事を与えようとした母親「もうご飯を食べられない」と弱々しく話した』という状況を想像すると、何か荒涼とした風景をみるような暗澹たる思いに駆られます。母親はどんな表情で、どんな気持ちで食事を与えようとしていたのでしょうか。

 もちろん食べさせようとしていたわけですから暴力をふるっている最中の怒りとか憎しみの表情ではなかったはずです。しかし同時に、そこには慈しみとか優しさとか、あるいは哀しみとか切なさとかは一切ありません。あれば抱き上げて病院に走っているはずです。
 憤怒も憎悪も慈愛も優しさもない。すると残るのは砂のような無表情だけです。冷淡すらない――。

 なぜ母親はそんな無表情で、体の弱った5歳の子に食事を与えていたのか。
 それは彼女が心を閉ざしてしまったからです。何かを感じる力を失って無表情になり、何も感じず、何も考えず、しかし子どもに食事を与えるのは母親の義務ですから機械仕掛けのように与えている、それがそのときの母親の姿なのです。

【この虐待は違う】

 私は十日ほど前、事件に関して
 たとえどんな生き物であっても子どものうちは可愛いものです。哺乳類に限れば可愛くない子どもなどひとつもいません。ましてや人間の子どもです。
 そんないたいけのない存在を、殴り、蹴り、寒風に曝したり水に漬けたり、あるいは食事をさせなかったり病院に連れて行かなかったりと、どうしたらそんなことができるのでしょう。まったく理解できません。その分からなさ、おぞましさ、残虐さが、私の目を事実から背けさせます。
と書きました。

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 カッとなってとか我を忘れてといった虐待なら分かるのです。先日も東京で「4歳の女児の背中に熱したフライパンを押しつけて」といった虐待事件がありましたが、容疑者の夫は「(妻は)出産後、育児で精神的に不安定だった」といった証言をしており、異常な精神状態の中で起こったことだと分かります。
 しかし目黒の女児虐待死は違います。そこにあるのは激情や憤怒ではなく冷淡です。非常に落ち着いて着々と進める、暴力の連続的な過程です。
 なぜそんなことができるのか?

 先日の記事では「目黒のような事件を説明する論理はネット上でも『支配欲』くらいしか見つからない」といった書き方をしましたが、それで納得できたわけではありません。5歳児を自由に操って満足できるのはせいぜいが小学校低学年までです。いい年をした大人が幼児に言うことをきかせて満足しているとしたら、その人間の卑小さにため息すら出てきます。普通はまず、そんなことはありません。
 だとしたらどういう支配欲なのか、何を支配したくてそんな行動をとっているのか――そう考えたとき、突然のひらめきがあって、私は児童虐待のひとつの構造を掴んだような気がしました。

 目黒の父親の支配欲を満たしていたのは亡くなった5歳児ではなく、その母親なのです。

【イサクの犠牲】

 今日の表紙に掲げたカラヴァッジョの「イサクの犠牲」は「イサクの燔祭(はんさい)」とも呼ばれる旧約聖書上の事件で、概要は次のようになります。

 アブラハムには年老いてから生まれた子「イサク」がいました。神との約束で100歳という年齢でもうけた奇蹟の子です。
 目に入れてもいたくないほど可愛がった子ですが、あるとき神はアブラハムに言われるのです。
「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私があなたに示す一つの山で、全焼の生贄としてイサクを私に捧げなさい。」(創世記22:2)
 耳を疑うような神の言葉でしたがアブラハムはすぐに従う決心をして、翌日の早朝、イサクを連れて神が示される山へと向かいます。
 途中、息子のイサクは燔祭(生贄を捧げる儀式)のための羊が用意されていないのを不審に思い父アブラハムに尋ねます。しかしアブラハムは「神が備えてくださる」と答えるのみで黙々と進んでいきます。
 ついに指定された場所へ着くとそこに祭壇を築き、アブラハムはイサクを縛って焚き木の上に寝かせます。そして短刀を振り上げ、今まさにイサクをほうふらんとするとき、天使が現れてアブラハムを制止するのです。
「あなたの手をその子に下してはならない。あなたが神を恐れることがよく分かった」 
 アブラハムは近くにいた羊をイサクの代わりの生贄として、神にささげます。

 それがこの物語の終り、神は自分の命に従ってアブラハムが最愛の子どもを殺そうとするのを見て、その信仰の篤さ、絶対の服従を確認するのです。

【アパートの片隅のイサクの犠牲】

 4か月前まで、目黒の小さなアパートで起きていた虐待事件の、心理劇的な側面はそういうものでした。

 主人公は北海道出身で東京の大学を出た三十代前半の男。逮捕時の写真を見るとこざっぱりとした服装で顎髭を蓄え、丸メガネの似合うエリート風の優男です。
 同じ大卒ならそろそろ家も購入して、安定した生活を送ろうかという時期です。美しく素直な妻と可愛い子どもが二人。悩むことと言えば順調に進んでいる来週の仕事のことか、今度の日曜日に家族でどこに遊びに行こうかといった平和な問題だけです。それが普通です――と彼は思っている。
 しかしわが身の現実として、この男には何もない。職もなく満足な棲家もなく、一緒に暮らす女と言えば子持ちの出戻りで、眉を落とした見るからにヤンキー崩れの仏頂面。本来そうであるはずだった自分とはあまりにもかけ離れているのです。
 この世にあって彼は何者でもない。誰も尊敬しなければ、讃えられるほどの仕事もしていない。いてもいなくても誰も困らない、単なる社会のゴミ、そんな人間です――と彼は感じている。

 ただしこの男にはひとつだけ、彼の満足感を支えてくれる存在がありました。それは妻、他ならぬ自分が拾ってやった子連れの出戻り女です。
 この女だけが自分に絶対的な服従を誓う、この女だけが自分の価値を認めてオレにひれ伏す、この女だけがオレのためにすべてを捧げるーー。
 そして男は妻の服従の絶対性を、神のように測ろうとするのです。
「お前の愛が本物なら、オレが娘を殴っても我慢できるはずだ」
「お前が本当にオレのことを思うなら、子どもを犠牲にしてもオレに尽くすはずだ」
「お前がほんとうにオレのそばにいたいなら、娘がどんな目にあっても耐えられるはずだ」
 もちろんあからさまにそう言ったわけではありません。あざといことに男は、連れ子のしつけを熱心にする義父のふりをしているのです。もちろんそれがしつけないことは母親にも分かっています。しかし逆らえない。

 連れ子を虐待することで妻の絶対的服従を確認し、繰り返すことでさらにその絶対性を高めていく、それがあの冷酷な児童虐待の本質だ――。
 今のところ私の心に落ちる説明はこれだけです。しかしこの仮説だけでは夫婦のあり方、とくに母親のあり方を説明することはできません。
 それはそれで別の物語だからです。

(この稿、続く)