受忍という概念の一部は、公共の利益のために、個人または特定の人々が何かの不利益を甘受しなければならないことを言います。取調受忍義務は代表的なもので、これは被疑者が取調べに応じなければならない法的義務のことを言います。また日照権などについても「受忍限度」という考え方があって、「この程度日陰になることは、公益上我慢しなければならない」その限界のことを言います。
さて、危険受忍というのは「公共の利益のためにある程度甘受しなければならない危険」のことを言います。たとえば運動会で、毎年大なり小なりのけが人が出るにもかかわらず私達が組体操をやめないのは、そこに大きな価値を信じているからです。一人二人けがをして参加できなくなるにしても、組体操を仕上げたときの児童の達成感、獲得された忍耐力、集団への寄与、集団性、それらには大きな価値があると彼らの犠牲を甘受するだけの価値があるということです。
学校にはそうした危険受忍の原理がいくらでもあります。
子どもを社会見学に出せば、そこには校内とはまったく違った危険があります。行った先で班別行動をすれば、団体行動とはまた違う危険があります。しかしそうした危険を全て回避してしまうと子どもは育たないのです。
私は、この「危険受忍」という概念をもっと早く手に入れておけば、保護者にうまく説明できたことをたくさん思い出すことができます。例えば、性教育だって人権教育だってすべて危険な側面があるのです。しかし危険受忍の原理から、それは行わなければならないことです。
ただし、危険受忍の原理を発動するには、
- それにはそういう危険があるかを理解させる。
- 安全のための配慮。
- それによって得られる価値の確認
この三つは確実にやっておかなければなりません。