カイト・カフェ

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「アカンもんはアカン」~なぜ人を殺してはいけないのか②

 明治の元老たちは納得できないまま、「人間は平等である」とか「自由である」とかいった思想を受け入れざるを得なかった、というお話をしました。しかしこの悩みは日本の明治の元老に始まるものではありません。人権思想の創始者であるJ・J・ルソーやアメリカのジェファーソンのころからそうなのです。

 人権を証明することはできない、「人間は平等である」とか「自由である」とかをみなが納得できる形で論証することはできない、しかし「人間は自由で平等だ」と決めなければ何も始まらない、彼らはそう考えました。そこで「自由や平等は神から与えられたものである」という考え方を生み出します(これを天賦人権説と言います)。そんなふうに考えなければ一歩も踏み出せなかったのです。「アメリカ独立宣言」や「フランス人権宣言」はそうした考えの上に立っています。

「我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている」アメリカ独立宣言)
「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」(「フランス人権宣言」第1条(自由・権利の平等))

 自由や平等は「自明(おのずと明らか)なものとみなす」と言い張るアメリカ独立宣言、それすらも言わず「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する」と言い切るフランス人権宣言。双方に共通するのは「人間の自由と平等については本質的な議論はしない、それは自明だからだ」という強い意志です。

 本題に戻します。
「なぜ人を殺してはいけないのか」
 その答えのもっとも優れたものは「たかじんのそこまで言って委員会」の中にありました。落語家のざこば師匠の書いた「あかんもんは、あかん」です。

 評論家の小浜逸郎は「一般的に(中略)社会が滅茶苦茶になってしまうからだと、当たり前に答えておけば十分である」と言い、瀬戸内寂聴は「理屈も何もない。これは仏教でいえば戒律である。人間として絶対にしてはいけない事である」と言います。これらはすべて同じです。

 子どもが納得するかどうかは決して重要な案件ではない、だめなものはだめだ、そう言うしかないことが世の中にはある、いやむしろ人間の本質に近いもののほとんどは証明できないものだ、そう彼らは考えます。自由だとか平等だとか、人は生まれた以上は生きる義務があるとか、自殺してはいけないとか、助け合わなければいけないといったことはすべて理屈で説明できず、定言命題として与えられるだけです。そしてそうである以上、子どもは“納得”しなくても引き取らなければならないことを、無条件に学ぶ必要があります。

 NHKの新大河ドラマが順調な滑り出しをはじめました。その中に「什(じゅう)の掟」というのが出てきます。什とは幕末の会津藩にあった子ども組織であって「什の掟」はその戒律です。

「年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ」に始まる七つの掟の最後の一行は「ならぬことはならぬものです」です。(←これ、たぶん2013年の流行語大賞です)。

 おそらく私たちが十分にして来なかった教育がこれです。そしてそれは遅くとも10歳までには済ませておかなければならないことです。
 繰り返しますが、子どもには、納得抜きで身に着けなければならないことが、たくさんあるのです。